トップページ > 遊技産業と社会貢献 > その1 日本初の重症心身障害児施設「島田療育センター」を支えた人々

その1
日本初の重症心身障害児施設「島田療育センター」を支えた人々

パチンコ産業の社会貢献はどうあるべきか。真に世のため人のためになる社会貢献とは、どのようなものなのか。その理想像を探るべく、6回連続で、パチンコ業界の社会貢献の歩みを取り上げる。その第1回は、一人のパチンコ業界関係者によって世に生み出され、その後も業界関係者の「人知れぬ」善意によって支えられた日本初の重症心身障害児施設・島田療育センターの歴史を振り返ってみた──。

島田療育センターとパチンコ業界の関わり

新宿から電車で西へ1時間。多摩丘陵に拓かれた多摩センターは、70年代からニュータウンとして造成され、近辺に都心から多くの大学が移転した。その駅前は閑静という言葉とは無縁のにぎわいを見せている。だが、ほんの40年前には、文字通りの農村であった。鬱蒼と茂る森には、大きなヘビやウサギが生息し、戦時中には都心からの疎開者も少なくなかったという。当時を知る人々の幾人が、近代化を遂げた現在の姿を想像できたであろうか。

 

その多摩センター駅から歩いて20分ほどの小高い丘の上に、島田療育センターはある。同センターは日本で最初の重症心身障害児施設として、昭和36年に開設され、以来、国内では有数の規模を誇る障害児福祉施設として、先駆的な試みを続けてきた。

 

それだけに、その歴史は、困難の連続でもあった。ときに障害者に対する差別や偏見で、ときに経済的な事情で、その経営が危ぶまれたこともあったが、そのつど、多くの関係者の並々ならぬ努力で乗り越えてきた。ところが、その歴史の裏には、パチンコ業界に身を置く人々の並々ならぬ支援があったことは、あまり知られていない。

 

センターの歴史を語るにあたり、その生みの親ともいうべき重要な人物が二人いる。その一人は、島田療育センターという名称の由来にもなった日本橋遊技場組合の元組合長である故・島田伊三郎氏。そしてもう一人がセンターの初代園長を務めた故・小林提樹氏である。今から40余年前、この二人の人生が交錯し、結果として当時の常識を打ち破る形でセンターは誕生した。振り返れば、その出会いは、いかにも運命的なものであった。

センターを生んだ小林園長の一言

戦後、居酒屋を経営し、その後、パチンコホールの経営に事業を広げた島田氏は、二男二女を設けたが、その末子である良夫君は重度の癲癇発作を伴う知的障害児だった。夫人の与志さんは、夫の仕事を手伝うかたわら、良夫君に付きっきりで、他の子どもたちの世話はお手伝いさんに任せっ放しの状態だったという。

 

良夫君の健康状態は、日々、悪化の一途をたどるばかりで、島田氏は、慶應病院で心身障害児のケアにあたっていた小林提樹氏を訪れた。昭和25年10月のことだった。

 

良夫君は、継続的な医療ケアを必要としており、家庭で面倒を見るには不可能に近い状態だった。そのため、島田氏は、別荘のような場所に良夫君を移し、そこで看護することを考えていると小林氏に伝えた。すると、小林氏から、こんな答えが返ってきたという。

 

「お宅の坊やのような障害を持ったお子さんはたくさんいます。そして、その世話に忙殺されている、幾多の家族がいます。そんな人たちが、ともに悩みを分かち合えるような施設の設立を考えてみてはどうでしょうか」

 

当時、障害児を取り囲む環境は、充実とはほど遠いものだった。良夫君のような重度障害児を収容する施設は存在せず、法的な整備も伴っていなかったため、満足に補助金を受けることすらできない状態だったのだ。さらには、世間にはびこる根強い差別や偏見が追い討ちをかけた。悲嘆にくれた一家が、心中や離散といった悲劇を招くのは、決して珍しいことではないという環境が、そこにはあった。

用地買収に成功するも思わぬ事故に見舞われる

小林氏の言葉にほだされた島田氏は、自らの私財を投じ、重度の障害児のための施設の開設を決意した。まずは土地と建物が必要と、近県を奔走、昭和31年、千葉県八千代台に、廃校となる校舎を見つけ、土地の買収交渉を始めた。ところが、障害児施設というだけで、交渉は難航。ついには頓挫してしまった。同センター常務理事の山川常雄氏は、当時をこう振り返る。

 

「『感染するんじゃないか』『村にそんな子を連れ込むな』『村が汚れる』など、あらん限りの偏見に満ちた言葉を投げつけられ、最後まで同意は得られませんでした。それでも、島田氏はめげることなく、次なる候補地を探し歩いたんです」

 

そうしたがんばりがあって、やっとの思いでたどり着いたのが、現在、センターが建つ多摩村だった。ここでも反対運動が起こるのは火を見るより明らか。そこで島田氏は、一策練った。「別荘」の用地だとカモフラージュして一万坪の土地を買収したのだ。当然、計画の進行とともに真相は徐々に住民に知れ渡っていったが、先の轍は踏むまいと、島田氏や小林氏をはじめ、多くの関係者が説得にあたり、ついには住民の了解を勝ち取った。後は建物を建てるだけと喜ぶ島田氏と小林氏。ところが、思いも寄らぬ悲劇が待ち受けていた。滋賀県内の施設に、一時的に預けていた良夫君が不慮の事故で亡くなってしまったのだ。

 

「スタッフが目を離したすきに行方不明になってしまったんです。必死の捜索の末に、近くの沼で溺死という無残な姿で発見されました」(山川氏)  

 

数年来、良夫君の将来のために奔走していただけに、島田夫妻の落ち込みようは並大抵のものではなかった。しかし、障害児のために土地を寄贈し、さらに建設費の1000万円を拠出するという考えは、変わらなかった。ところが、程なくして島田氏の経営事情が悪化し、建設費の捻出が難しい状況に追い込まれてしまった。

社会的な波紋を呼んだ島田氏の思い

しかし、島田氏の思いは、すでに社会的な動きとして萌芽し始めていた。その窮状を産経新聞が報道したことがきっかけで、当時の電源開発公社の元総裁の故・内海清温氏が旗振り役となり、財界に寄付を呼びかけたのだ。かくして、1500万円もの募金が集まった。そして、昭和 35年に工事は着工、翌年5月、ついに島田療育園(平成5年に島田療育センターに改称)は開設された。

 

当初から予想していたものの、経営的には決して順風満帆とはいかない現実が待っていた。少しでも赤字を減らすために、医療費の収入を見込んで病院という形をとった。病院であるからには、医師や看護師といった専門スタッフが必要となる。そのための人件費は、経営を圧迫するほど大きなものだった。

 

また、当時の児童福祉法は、重度障害児が対象外だったため、社会福祉法人としては認められず、財団法人としてスタートせざるを得なかったのも大きな障害だった。社会福祉法人に認められなかったことで、補助金が受けられないうえに、寄付金に税金がかかってしまうというマイナスもあった。たとえば、ある企業が社会福祉法人に寄付をした場合、その額は税金の対象から免除される。ところが、財団法人であれば、寄付金にも税金がかかってしまう。当然、寄付は集まりにくいという図式ができあがってしまった。

経営難が続くも 理想的な施設が実現

作家の水上勉氏は、そうした状況の改善を試みた一人である。昭和39年、自らも障害を持った娘を抱える氏はセンターを見学に訪れ、その経営面の惨状を目の当たりにした。そして、中央公論誌上で、時の首相であった池田勇人氏に向け、「拝啓、総理大臣殿――」という書き出しで、障害者施設への援助を強く呼びかけたのだった。その反響は大きく、政府は法的に障害者保護を認める方針を打ち出し、ついに昭和42年、重度障害児は法的に保護される存在となって、補助金も拠出されるようになった。  

 

島田療育センターにとっては大きな一歩だったが、経営事情が劇的に改善することはなかった。それでも経営難で、施設の質を低下させるわけにはいかなかった。そして、たしかに、そこには慈愛に満ちた世界が築かれていた。小林氏は自伝の中で開設当初の10年間を、こう回顧している。

 

「(自分のためというより、他人のためという)素朴な、単純な、道徳的考えは、島田療育センター開設後少なくも十年間は続き、誠に平和な、今から考えても、この世に現出した理想に近い世界と言えそうな雰囲気であった。(中略)当時は公的扶助も十分とはいえず、貧しかったけれど、職員も障害児もそれに耐えて、しかし、楽しさは経済的に豊かな現在よりはよほど豊かに過ごしていた」

 

しかし、残念なことに、その状態は、長くは続かなかった。

労組の活動が激化 小林園長の退任

繰り返し述べているが、当時は、今とは比べものにならないほど、障害者は社会から隔絶された存在だった。そのため、障害者施設で働きたいと希望する人は稀で、島田療育センターでは、経営難に加え、つねに人手不足にさらされていた。働きたいという人がいれば、面接も健康診断も通さずに、即、採用せざるを得なかったのである。その弊害が思わぬ形で噴出した。労働組合の組織化だった。

 

「設立当初からのスタッフは、純粋に障害児を手助けしたいという思いで集まりました。いわば、半分はボランティアという思いを共有していたんです。ところが、中途で入った職員が、知らぬ間に組合を組織し、給料アップなどを要求し始めたのですから、まさに青天の霹靂でした」(山川氏)  

 

当時は、社会的に労組の嵐が吹き荒れていた時代。その波に飲み込まれるようにして、園内でも労組が組織化され、ベースアップや職場環境改善の要求が続いた。職員だけならまだしも、外からも赤旗を掲げた援軍が集まってきて、施設内に土足で入り込んでは要求を叫び立て、しまいには、ストライキの断行にまで踏み切ったのである。

 

小林氏は、当時の状況をこう振り返っている。

 

「春闘と称する統一行動でストライキを実施するのは、社会福祉施設の性格を無視した行為である。生命も健康も福祉も守れない施設に陥ったのでは存在理由もあったものではない。(中略)福祉は道徳的であるために、暴力には無防備であって、攻め込まれると敗北、少なくとも妥協はあったとしても、勝つことはない」

 

ストライキは、入所する障害児の命に関わる問題だ。その脅威にさらされている状態では、障害児の生命も健康も福祉も守れない。そう判断した小林氏は、センターを解散する決心を固めたが、それもかなわず、ついには自らが園長を辞任した。

 

小林園長という屋台骨を失い、島田療育センターの経営は、ぐらぐらと大きく揺らぎ始めた。この頃、まさに風前の灯火であったセンターの行く末を案じる記事が新聞各紙に取り上げられた。

パチンコ業界有志で「守る会」を結成

その窮状を知り、立ち上がったのが、都内のパチンコホールの経営者たちだった。昭和50年、故・飛田茂雄氏や故・稲葉吉春氏、清水栄次郎氏が中心となり、13名の有志が名乗りをあげ、「島田療育園を守る会」を創設したのだ。稲葉氏の子息で、現在、「守る会」の3代目代表世話人を務める稲葉憲司氏はこう語る。

 

「島田氏によって設立された島田療育センターは、パチンコ業界による社会貢献の原点ともいうべき存在です。その火を消してしまってはならないということで、有志が立ち上がりました」

 

設立年には、各氏がそれぞれに寄付金を募り、303万7395円を寄贈した。以来、毎年、途切れることなく1月に寄付金の贈呈式が行われ、昨年は525万2245円の寄付を行った。20年間の総額は、1億7871万6778円にも上っている。「都下の遊技場組合の有志に募金をいただいています。今後は、1人が1万円を出すよりも、1000円でもいいから10人から集められるように、センターの認知度を高めていきたいですね」(稲葉氏)  

 

寄付金だけではない。リクリエーション活動のアイデアやマンパワーの提供にも積極的に取り組んできた。島田療育センターには、介護者の手を借りなければ移動が困難な障害者も多いため、運動会や遠足といった特別な行事では、絶対的に職員の手が足りなくなる。そこで、少しでも力になればと、毎回、有志の世話人が自社の社員や家族を連れて訪れ、手を貸している。また、都遊協が所有していた、パチンコ機を搭載した車「ドルフィン号」を年2回ほど派遣し、入所者にパチンコを楽しんでもらったりもした。これは大受けしたため、車が廃車された後も、2台の“シマ”を作って贈呈することになった。万人が楽しめるゲームとしてパチンコが認められた形で、パチンコ業界に携わる者にとっては、なんとも誇らしいエピソードである。  

 

こうした社会貢献は、いわば売名的に利用される一面がある一方で、「守る会」の活動内容は業界内でもあまり知られていないという事実がある。それに対し、稲葉氏はこう語る。

 

「大々的にアピールし、のべつ幕なしに協力者を集めるよりも、少数でもいいからセンターの事情を真剣に考え、物心両面のサポートを行える賛同者を集めるほうが、末永い活動が続けられると思っています」  

 

こうした「守る会」の活動姿勢に対し、センター側が寄せる信頼感は大きい。 「物理的にも精神的にも多大な援助をいただき、感謝の言葉もありません。みなさん頻繁に施設を訪れ、障害児とも触れ合ったりもしています。本当にセンターのことを考えてくださっていると、ひしひしと感じますね」

と、話すのは、現在、同センターで院長を務める木実谷哲史氏。

資金不足が続くセンターの現状

こうした「守る会」の活動は、島田療育センターにとっては一種のカンフル剤となった。小林氏退任後も、職員は不屈の精神で奮起し、揺らいでいた経営状態は徐々に落ち着きを取り戻していった。  

 

また、地域住民をはじめ、障害児に対する姿勢が急速に改善されていったことも、園の運営にとっては大きなプラスとなっている。

 

「ボランティアで訪れてくれる人は増加の一方ですね。また、夜間に災害が発生した場合、当直の職員だけでは入所者すべてを救出するのはムリです。そこで地域住民に連れ出してもらう「災害時応援協定」を結び、快く協力してもらっています」  

 

こうした喜ばしい変化の一方で、依然として経済的な問題は解決を見ていない。一般企業が経営難に陥った場合、真っ先に削減するのは人件費。しかし、障害者施設では、その業務の性質上、人手を減らすことは許されない。しかも、センターのスタッフは、医師や看護師、介護福祉士、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士をはじめとした専門職の集合体のため、一般企業に比べ、相対的に人件費は高い。現在、233人の入所者に対し、パートタイマーも含めるとスタッフ数は400人近くに上り、1名に付き2人弱のスタッフが働いている状態だ。支出の8割近くは人件費が占めているのが現状である。

 

「昨今の社会情勢は一段と厳しく、福祉の世界でも、多くの公的補助を望めなくなっています。先行き不安は払拭し切れず、当分の間は、苦しい状況が続きそうですね」 (木実谷氏)

 

同センターの40余年の歴史は、一人のパチンコ業界関係者から始まった。その思いを無にしてはならない。そんな思いに突き動かされた有志たちが、そのバトンを受け継いできた。その歴史を振り返ると、今、私たちに何ができるのか、そう考えさせられずにはいられない。