【第3回 エッセー・絵手紙コンクール】

コンクールの応募は2013年2月28日をもちまして締め切りとさせていただきました。
たくさんのご応募ありがとうございました。

応募総数は、エッセー457編、絵手紙332枚でした。厳正な審査を行い、受賞作品を下記の通り発表します。

 

 

受賞作品のご紹介

 

エッセーの部


 娘さんをください、なんて仰々しい挨拶をしにきたわけじゃないのに、父の顔は険しかった。私の恋人は、蛇に睨まれた蛙のように身をすくめている。
 事の発端は私の外泊が増えたせい。彼も私も旅行が好きなので、毎週末のように遠出をしていたのだ。もう大人なんだから構わないでしょ、と反論する私に、ならば交際している人をきちんと紹介しなさい、と父は言いつけた。
 「君、趣味は何だ」
 名前から年齢、職業までを取り調べのように聞いたあと、父は固い声で尋ねた。
 「はい、釣りです」
 実はこれは嘘。本当は大が付くほどのパチンコ好きだけれど、そんなこと言っちゃうと印象が悪いでしょう、と二人で事前に話し合ったのだ。父の趣味もパチンコで、それが母の愚痴の種だという話は置いておいて。
 「本当か?」
 父がギロリと恋人を睨む。彼はうろたえて、大きな声で、ごめんなさいっ! と叫んだ。
 「嘘をつきました! 本当は、パチンコが好きなんです」
 父は何も言わなかった。最後に厳しい表情で、しばらく外泊は控えなさい、と忠告され、訪問は終わった。
 「やっぱり良く思われないよな、パチンコが趣味だなんて」
 帰り道、肩を落としてしょげる恋人を、そんなことないよ、と励ます。

 「きっと嘘をついて、自分を良く見せようとしたことがだめだったんだよ。次会うときは、ありのままを見せようね」
 映画を観にいこうと予定していた日に、彼に急用が入った。掛かってきた電話に出た後、ごめん! と頭を下げられる。
 「楽しみにしていたのに。何の用事?」
 問いただしても返ってくるのは謝罪ばかり。そのうえ着ていたパーカーを脱いで、ぱりっとしたシャツに着替えたりしている。これは怪しい!
 「せめてどこに行くのかだけは教えなさいよ!」
 彼は、泣き笑いのような、奇妙な表情を浮かべて小さく呟いた。
 「……パチンコ」
 恋人の部屋でふて寝をしていたら、彼が宝くじにでも当たったかのように晴れやかな顔で帰宅した。
 「彼女を放置して打つパチンコは楽しかった?」
 嫌みったらしくそう聞くと、彼は笑って首を振った。
 「お義父さんに、許してもらえたよ」
 頭の中にたくさんのハテナが浮かぶ。間抜け顔の私の隣に腰掛け、彼はさっきまで父と一緒にパチンコ屋さんにいたのだと説明した。
 「今朝の電話、お義父さんからだったんだよ。あいつに話すと心配してついてきてしまうだろうから、一人で来てくれって言われてさ。映画、行けなくてごめんね」
 私は首を振り、続きを促した。
 「駅で待ち合わせしていたんだけど、どこに行くのかと思えばパチンコ。お義父さんが何も言わずに打ち出したから、俺も隣に座ってさ。しばらく無言で打ち続けたよ。あの時ほどパチンコ屋の喧騒をありがたいと思ったことはないね」

 

仏頂面の中年の男と、その男の娘の恋人が、気まずそうに肩を並べてパチンコ台に向っている。想像すると吹き出してしまいそうな光景だ。
 「お義父さんは調子良かったけど、俺はさっぱりでさ。お義父さん、やっと俺の方向いてくれて言ったんだよ。そんなんじゃ勝てないぞ。次はどこへ行く予定なんだって?」
 来月、長崎へ行こうと計画を立てていた。お義父さんに禁止されたばかりだし、と彼は渋ったが、私が駄々をこねたのだ。彼が、「九州へ」とびくびくしながら答えると、父は大きく頷いたという。
 「長崎だろう。あいつが昔、軍艦島に行きたいと言っていた」
  そしてなんと、父は彼に礼を言ったそうだ。
 「俺は仕事にかまけていて、しばらく旅行も連れて行ってやれなかった。ありがとう」
 それから初めて笑顔を見せて、彼の肩を小突いたらしい。
 「旅行もいいが、たまには真っ直ぐ家に帰ってこいと、あいつに伝えてくれ。母さんが寂しがる」  帰り際、父はその日の戦果を彼に渡した。
 「長崎で、旨い物でも食ってくれ。うちのカミさんはこれをやっておけば機嫌がいいから」
 そう言って、景品のキャラメルの箱を振り、父は帰って行ったという。
 「そうそう、あいつはこれが好物だからって、お義父さんが……」

 彼がポケットから取り出したのは小袋のラムネ。蓋を開けて一粒口に含むと、懐かしい味が広がった。小さい頃、父が母に内緒でくれるこの駄菓子が大好きだったのだ。成人しても恋人ができても、お父さんにとって私はいつまでも子どもなのだ。そう思うと、感謝と反省で目頭が熱くなった。
 父がくれた戦果は、使わずにしまってある。九州から帰ると、彼を連れて父母と食事をしようと計画しているからだ。パチンコ談義に花を咲かせる男達と、それを呆れながら見守る母娘。そんな幸せな風景は、パチンコが繋げてくれたのかもしれない。そう考えると、パチンコのネオンに、ありがとうと伝えたくなる。それに、休日に申し訳なさそうにパチンコ屋さんへ向う彼の背中を、温かく見送れる気もするのだ。

−終わり−

動画はこちら

 ぼくのパチンコ歴は約30年。大学に入学した時からの長い付き合いだ。大勝ちをしたことも何度かあるが、トータルでみると相当な金額をつぎ込んでいると思う。それでも懲りもせずにやっている、失業中の今でも……。
 ぼくが初めてパチンコ屋に行ったのは幼稚園の頃、1970年代初頭だった。遠い昔なので定かではないが、父に抱っこされてパチンコ台を眺めていた記憶がある。
 当時のパチンコ台は手動式で、台の穴にパチンコ玉を一つ入れてはハンドルで弾くというものだった。ぼくも何度か玉を打たせてもらったが、おもしろいとは思わなかった。それよりも、ガムやあめ玉を買ってもらえることが嬉しかったし、忙しい父と一緒にいられることがもっと嬉しかった。父は普段は厳しい顔をしていたが、パチンコをしている時だけは穏やかな顔で楽しんでいた。だから、当時のパチンコ屋さんは、僕にとってはやさしい父との思い出の一つとして記憶に残っている。
 ぼくが本格的にパチンコを始めたのは大学一年の時だ。高校時代の友人と駅前で待ち合わせをした際、一時間ほど早く着いてしまったので、時間つぶしのために入ったのがパチンコ屋さんだった。
 羽根物と呼ばれていた台が流行っており、ぼくはゼロ戦の台の前に座った。だが、座ったのはいいが、どうやったら遊べるのかが全く分からず、横目で隣の人の行動をちらちらと観察し、ようやくお金を投入するとパチンコ玉が出てきて、ハンドルを回すと自動的に玉が弾き出されるということを理解した。おそるおそる百円硬貨を投入するとパチンコ玉がでてきた。そしてハンドルを回すと、弾かれた玉がどんどん飛び出した。

 その日は、ビギナーズラックとなり、パチンコ玉でドル箱が一杯になった。ぼくは、ほとんどをタバコと交換し、残りの玉でお菓子とチョコレートなどを貰った。この時に負けていれば、その後のパチンコ人生は今とは違うものになっていたかもしれないが、やはりわずかながらでも「勝つ」という美酒を知ってしまったため、ぼくはパチンコにのめり込んでいくことになった。
 大学時代はほとんどが羽根物のパチンコ台だったが、ぼくが卒業して働き始めた頃には、パチンコ台は羽根物からデジパチへと進化し、出玉も多くなっていた。もちろん、投入する金額も大きくなったが、独身時代はそんなことは全然気にせず、休日はほとんどパチンコ屋さんで過ごした。その後、結婚をしてマンションを買ってからも、嫁さんに小言を言われながらパチンコ屋さんに通い続けた。
 こんな楽しいパチンコ生活を送っていたのに、運悪く、勤めていた会社が業績不振となり、退職することになってしまった。四十代半ばのわが身に降りかかった人生最大の災難だ。次の就職先がなかなか決まらず、周りから能天気と呼ばれているぼくでも、さすがに落ち込んでいた。毎日が憂鬱で、最近では、ハローワークに仕事を探しに行く時以外は家に引きこもっている。
 こんなぼくを見かねてか、
 「気晴らしにパチンコでも行ってきたら」
 と、嫁さんが千円札を3枚差し出した。
 「せっかくだけど、三千円ではすぐに終わってしまうからいいよ」
 「大丈夫よ。隣の○○駅のパチンコ屋さんには一円パチンコがあるから、行ってらっしゃい」
 「なんで、君がそんなこと知っているの?」
 「私もたまに遊びにいっているのよ。ただし一円パチンコだけどね」
 「へー、そうなんだ」

 驚いた。今まで、嫁さんがパチンコに行っているのをまったく知らなかった。僕は、
 「良かったら、一緒にいこうよ」
 と、初デートに誘うように嫁さんに言った。
 二人でパチンコ屋さんに行ったのは初めてだった。当然、嫁さんがパチンコを打つ姿を見るのは初めてだったが、なかなか堂に入っている。ぼくに隠れて相当来ているのだろう。その日は、二人で五千円ほど負けてしまったが、ぼくの気持ちは勝ったも同然だった。なにせ、今までの憂鬱が嘘のように消えていたのだから……。
 「すっきりしましたか、旦那様?」
 帰り道、嫁さんが僕の顔を覗き込みながら聞く。
 「うん」 「また、来ようね」
 「……」
 僕は涙をこらえるので精一杯だった。
 世間には、パチンコを毛嫌いする人もいるが、ぼくのようにパチンコで救われる人もいる。幼い頃に父と一緒に行ったパチンコ、人生のどん底で嫁さんと一緒に行ったパチンコ、また、独身時代に大儲けしたパチンコ。いろいろな思い出がある。
 日本全体が不況に陥っている現在、パチンコ業界の売上も年々減少傾向にあるとのことだが、ぜひ、パチンコ屋さんには今後も頑張ってほしい。
 ぼくが再就職した暁には、最初の給料は全部パチンコにつぎ込もうと思っている。もちろん嫁さんと一緒に。

−終わり−

動画はこちら

 「くそ、また負けた!」
 7年前、友だちからパチスロのやり方を教わった僕は、楽しみながら、景品を取れることに魅了され、バイトで稼いだお金を給料日にすべてパチスロにつぎ込んでいた。
しかし、そう簡単に勝てるわけもなく、汗水流して働いて得た給料が水の泡に帰すまで、そんなに時間はかからなかった。そこで止めておけばよかったのだが「絶対に取り返す!」とヤケになってやっているうちに、気がつくと朝から晩まで打ちっぱなしでギャンブル依存症のようになっていき、バイクを買う為に貯めていた貯金も底をついてしまった。
 さすがに10代だったので借金こそしなかったが、パチスロをやる為だけにバイトをするようになり、バイトのない日はお金がなくてもパチンコ店に入り浸る生活が続き、社会や人間関係からも孤立していた。今思うと、当時の僕はまさにパチスロをやることだけをインプットされたロボットのようだった。
 変化が訪れたのは5号機と呼ばれる機種に移行した時だ。5号機は、僕がハマっていた4号機よりも射幸性を抑え、それによって以前よりも出玉が少なくなってしまった台で、徐々に人気が無くなり、パチスロをやる人は4号機全盛の頃と比べると明らかに減ってしまった。
 僕もそのうちの1人だった。パチスロだけにお金をつぎ込んできた僕は、4号機とは性質の全く違う台に物足りなさを覚え、心にぽっかりと穴が開いてしまい、パチンコ店へと向かう足は徐々に鈍く、遠くなっていった。
 パチスロをやらなくなって4年。友だちと待ち合わせをしていた僕は少し早く来てしまい、どう時間を潰そうか迷っていた。すると、ふとパチンコ店が目に入り「パチスロかぁ、そういえばずっとやってないな、久しぶりにちょっとだけやってみるか」と思い、駅前のパチンコ店へ入った。そこでパチスロの台を選んで打っていると、以前とは『見え方』が違っていた。

その要因は空いた時間に純粋にパチスロを楽しめたからだと思う。4年前は単純に景品が欲しいという理由だけで、店内や店員、ましてや客なんて見もせず、リールしか見ていなかった。だがこの時は、「広い休憩場所だな」とか「店員さん忙しそうだな」「結構女性客もいるんだな」と周りがよく見えていて、視界が開けたような感じがした。
 それと同時に、これが本来、パチンコ店と客のあるべき姿なのではないかと気付いた。パチスロと聞くと多くの人がギャンブルだと思うだろうが、ギャンブルではなく娯楽なのだと。パチスロをギャンブルにするのも娯楽にするのも打つ人次第なのか。そして、娯楽には社会があって人間関係がある。
 それに気付いた僕は、止めていたパチスロをもう1度やることに決めた。それに伴いパチスロを娯楽として楽しむ為に自分でいくつかのルールを決めた。
 まず、1日に使うお金は5千円までにした。最初は物足りなかったり、いい感じで来ていたのに止めなければならなくて悔しい思いもしたりしたが、慣れてくると気にならなくなっていった。このことで、限られたお金を有効に使うために、どの台が長くやれそうかと推理する楽しみも生まれた。
 次に、ひと月にパチンコ店に行く回数に制限を設けた。いくら1回に使うお金が少なくても、毎日行ってしまっては意味がない。なので、ひと月に行ける回数は3回と決めた。1週間に1回ずつの4回にしようかとも思ったが、趣味や他の娯楽に当てる時間も必要だと思い、3回にした。
 そして3つ目、店に滞在する時間に制限をつけた。パチスロを打とうが打つまいが、店にいる時間は長くても3時間だけ。これは初めに言った通り、あくまでも娯楽であるのだから9時間、10時間も入り浸るようなかつての僕にならないようにするため。3時間という時間にしたのは、娯楽といえば映画だと思い、その上映時間が大体2、3時間なのでそれ以上の滞在は禁止にした。最初は2時間にしていたのだが、時間に追われてしまい楽しめなかったのでちょっと欲張った。

 そして最後は、コミュニケーションを取ること。相手は店員さんや休憩所にいる人達で、中には冷たくあしらわれることもあるけれど、パチスロのこととか下ネタ、パチンコ店には似つかわしくない世界情勢のことなんかも話してくれる人がいたりして、新しい発見があり、名前も住所も知らないパチンコ店だけで会う友だちもできた。
 今、これらのルールを守ってパチスロを楽しんでいる。当然勝てはしないが、以前より多くのものを手に入れた気がする。
 別に、パチスロを打つだけがパチンコ店へ行く楽しみではないことにも気付けた。この考え方が世の中に広がれば、もっとパチスロのイメージが変わり社会貢献にも繋がると思う。しかし、それを実現するのもしないのも、打つ人次第なのだ。是非、パチンコ、パチスロを愛する皆さんにも試して頂きたい。

−終わり−

動画はこちら

 私は平凡な人生を歩んできた。幼い頃から普通の娘。運動も勉強も真ん中くらい。県内でやはり真ん中程度の高校に入り、レギュラーにはなれなかったけどテニス部をこなした。大学に進学するエネルギーは無く、地元の普通のOLになった。地味な旦那と結婚し、その後、離婚。子供はなく、現在独り。それから実家に出戻って、ニートをしていた。いわゆる平々凡々より下かな? の人生になった。
 村八分と言う言葉があるけど、田舎は時として残酷だ。離婚した私を冷たい目で見るご近所がいた。
 「今はニートなんだってよ」
 田舎では、子供も産まなきゃ一人前の女として見てはもらえない。のどかな山並みが広がるこの美しい田舎で、人々の素朴な価値観は、時に私を窮屈にさせる。孤独で退屈な毎日の中、「めくるめく様な人生が欲しいな」と、私はつぶやいた。  

そんな私がパチンコに出会ったのは32歳の時である。私は初め、パチンコをする人を不良だと思っていた。しかし、お客はみんな、大人しく台を打っている。分からなそうにしていると「こうするんだよ」と笑顔で教えてくれる人さえいる。店員は親切丁寧。女性も多く、私が思っていたのとは違う清潔感があった。トイレなども15分に一度ピカピカに清掃しているので感心してしまった。
 パチンコ店では、誰も私をニートと言い眉をひそめたりしなかった。不思議なことに、ここには差別が存在しないのだ。イジメも。偉い人だからとか、ニートだからとか全然関係ない。ただただ、ホールではパチンコの話が飛び交い、ルール通り遊技する、安心安全な場所である。パチンコ店にいると私は心の底からホッとし、のびのびとできた。

 パチンコという居場所が出来て、私は肩身の狭い女ではなくなった。田舎で、保守的に頑張らなきゃいけないと思って、意地を張りすぎた。出戻りだからと言って、ニートだからと言って、本当は卑屈になることなどなかったのだ。なぜなら私は、こんなにもパチンコを楽しむことが出来るからである。「すごく楽しい」それは密かな自信だ。
 私は、ご近所さんから目を背けて、下を向いて通り過ぎていたが、晴れ晴れとした顔で挨拶ができるようになった。「おはようございます」「こんにちは」。パチンコがくれた自信が、人々との繋がりをもたらした。
 パチンコをやっていると当然、勝ったり、負けたり、運の浮き沈みがある。それは、私の「もうひとつの人生」を見ているようだった。パチンコの運の浮き沈みは、決して平凡とは言えない。めくるめくようなドラマがある。それが面白い。パチンコの醍醐味である。私は夢中である。

 それに、女を忘れていた私は、とびきりのおしゃれをして、ニコニコとパチンコへ出かけるようになった。どうしてこんなに女らしく若返ってしまったのだろう? まるで大切な男に会いに行くようじゃないか。照れ笑いしてしまう。シャワーを浴びて、入念に化粧し、注意深く服を選んで、ハイヒールをはくというパターンは、パチンコと出会って生まれた、女としての私。
 「おしゃれになったね」と声をかけられるようになった。女に生まれて良かったと思えたのも、パチンコに出会えたから。私はパチンコに出会って、一生キラキラした女でいたいと思うようになった。それにパチンコがしたいから、ニートを卒業し、パートで働くようになった。目標があると働きがいがある。もちろん職場では、パチンコの話で盛り上がる。ここでも楽しむ者勝ちだ。

 今日も店員さんに「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げられた。逆である。頭を下げるのはこちらの方。「パチンコ屋さん、いつもどうもありがとう。明るくなって、友達も増えました。これからもよろしくお願いします」 と。

−終わり−

 「指の運動頑張ってますか。さっぱり会わないけど、主戦場はどこですか?」
 昨年の8月、旧知のコミュニテイ新聞の主幹からFacebookでメッセージが届いた。震災後一度も会う機会がなく気にかけていたという。
 言われるまで気付かなかったが、震災後パチンコもパチスロも一度もしていなかったのだ。会わないのは至極当然のことだった。
 連れに「ホームグランドにいるからね」と言って出かける店があった。その店は、津波によって被災し、そのままリメイクを果たせずに解体された。従業員の方々の安否を心配していた。その後、お客さん共々無事だと聞いて安心したものの、やっぱり他店で遊ぶような気にはなかなかなれなかった。
 暫く経って、またメッセージが届いた。
 「ほんとに暑くてまいったね、今日は夕暮れの雨がありがたかったよ。ところで、行ってみたかな?」
 何だか悪いことでもしているような気がして、こう返信した。

 「今日は行くぞ〜と毎日思うんだけど、マイライフが忙しく、時間がとれなくて行ってないですね。その内行きます。良い情報があったら教えてください」
 彼は、震災後、かつてのパチンコ・パチスロ愛好者が入店に二の足を踏むケースが増えていて、胸の内を閉ざす被災者が多いことを取材で知っていた。私もその一人なのかも知れないと心配してくれていたのだ。
 「鉄球部の仲間内ではね、W店は1の日と4の日がよく出るという噂だよ。俺は、近くのU店に行ってはコテンパンにやられているがね。倒産寸前だよ」と笑っている様がメッセージから見て取れた。
 「ありがとうございます。参考にしておきますね、師匠」と、型どおり返信した。
 「勝ったら祝杯をあげよう。招待状待ってるよ」
70歳でこのバイタリティーは素晴らしい。
 「暫く忙しいので、ひとり戦勝祈願でもしています」と送信してこの日のチャットを収めた。

 その後、余計に敷居が高くなったような気がしていた。これほど多くの被災者が周囲にいるのにパチンコなどしていてよいものかと自己嫌悪に陥っていたのだ。 「その内に、その内に、って言ってるとね、誰も信じなくなってしまうんだよ」と言われているような錯覚さえも覚えた。
 私は、震災の月の31日をもって退職し、在家庭となっている。悠々自適に第二の人生を楽しもうと思っていたはずだったのに、パチンコ店にも入れない、そんな人生を送り続けるのかと自問していた。
 身を案じてメッセージを寄せてくれた主幹の好意「そうしてあげなければ」と思わせた私の精神状態は、冷静に考えれば穏やかなものではなかったに違いない。
 2013年2月、友人との待ち合わせ場所に指定されたのがW店だった。入店すると礼儀正しくスタッフが迎えてくれた。化粧室も爽やかで気持ちが良い。禁煙コーナーは、かつて喫煙していた者にとっては実にありがたいなどの感想を胸の中で呟いた。

 コーヒーを飲みながら待つことにした。そこに、友人からの連絡。かなり遅れそうだから時間つぶしをしていて欲しいというのだ。
 思い直して台に着くと、若者が3人ほど近づいてきた。
 「俺です」
 「俺です」
 「俺です」
 と、全員が同じことを言う。
 「また、単身赴任かと思ってましたよ。元気ですか」と声をかけてくる。その輪が次第に大きくなっていった。「みんなに迷惑だから後で」と言うと、今度は、店員が近づいて来てこう言った。
 「ホームグランドがなくなって寂しいんじゃないですか。これからは、ここをホームグランドにしてくださいな」

 かつて、私がホームグランドと呼んでいた店の従業員はこの店に移っていて、客も多くはこの店の常連となっていた。実に救われた思いがした。
 たった2年休んでいただけなのに、貸玉の扱いやコインやカードの使用方法が分からなかったが、そこはスタッフが丁寧に教えてくれた。コーヒーや炭酸飲料が次々に差し出され、まるで快気祝いでもしてもらっているようだった。

 紙コップを口に運んだそのとき、盤面に閃光が走りハンドルがキュンキュンなって点滅を始めた。私はいささか緊張していたが、左右の台についている若者たちは満面の笑顔で祝福してくれた。台の後ろに主幹が立っていて「自力、自力」と肩を揉みながら、私の右手を高く掲げた。
 この2年、悶々とした毎日を送ってきたのは夢ではない現実。だからといって無駄でもなかった。しっかりしなければとばかり思っていて、心に余裕を持てなかったような気がする。少しゆとりを持って、少しの遊び心も持って、普通の生活に返ればいいのだ。
 この日は、この店のラーメンライスで打ち合わせを済ませることにした。帰宅後、日用品や保存食を抱えて帰ると「久しぶりだったでしょう。良かったわね」と、連れは笑顔で迎えてくれた。

−終わり−

 まず、遊技機を楽しむのがパチンコホールに行く大きな目的だと思うが、皆さんはどうだろうか。「独りで楽しめるし、何も考えず独りっきりの時間ができる」。逆に、「ホールに行けば顔見知りもいるし、色んな人とコミュニケーションがとれて楽しみを共有できる」
 もちろん、人によって千差万別ではあるが、パチンコホールに求めるのは決して遊技機を楽しむためだけではないと私は思う。そういったものを含めて「パチンコ」というものが皆好きなのではないだろうか。
 私はどちらかと言えば、独りで台とにらめっこしてパチンコを黙々と打つのが好きなタイプだった。ホールで見知らぬ人に話しかけられるのも好きではなかったし、隣から液晶画面を凝視されるなんてもってのほかだ。

 私は某機種に傾倒していた時期がある。来る日も来る日も決まったホールでその機種を打っていた。そんなある日、いつものように大学での講義を終え、駆け足でホールに向かってお気に入りの台を打っていた時のことである。見かけは主婦であろうか。自分からしてみれば母親くらいであった。私が台に座った途端、隣のそのおばちゃんはすぐに大当たり。みるみるドル箱の山を築いている。うらやましく思っていると、私にもチャンスがやってきた。リーチ中は台とにらめっこ。当たってくれーと思いながら台を凝視していると、おばちゃんは手を止めて隣で応援している。複雑な心境ながらも、無事私の台も大当たりを射止め、ドル箱に手がかかる。

 すると隣のおばちゃんが「お兄ちゃん、どうぞっ! 頑張って、おばちゃん抜いてね!」とブラックコーヒーを差し出してきた。びっくりしつつもありがたく頂戴した。どうやら日頃から常連客にコーヒーを配っているらしい。単純に親切心からくるものなのか、おばちゃんなりのゲン担ぎなのか? それはいまだに分からない。ただ、喜びを共有したいというのはひしひしと伝わってきて、微笑みがかわいらしかった。この後順調に大当たりを伸ばして、一時間程度経ったころであろうか、お互いの連荘も同じタイミングで仲良く終わり、また機嫌の良さそうなおばちゃんが話しかけてきた。「お兄ちゃん、この台好きでしょ〜? 私もこの台好きなの〜……」と会話を交わしながら玉を打ちこむ。

 先ほども書いたが、私はホールで会話することをあまり好まない。その時ももちろん困惑していた。今思えば、食わず嫌いだったかもしれない。しかし、しばらく会話を交わした時には、数時間前の困惑はなかった。そこにはそのおばちゃん独特の包容力があった。世代間のギャップもなく、普通に楽しい会話をしていた。家族のこと、ホールのこと、好きな台のこと、演出や大当たりに一喜一憂と、今までにないとても新鮮で有意義な時を過ごせた。その夜、「独りだけで思いふけって打つパチンコだけじゃなく、こうやって誰かと楽しみを共有しながら打つパチンコってのも案外良いな」と思った。それから数日、私はホールへと足を運んだ。はやる気持ちを抑えきれずに、もちろん駆け足で。
 やっぱりいた、おばちゃんが! 最初に会うなり声をかけて、「頑張ってね〜!」と一言貰った後に、今日はおばちゃんよりも早く当ててジュースの恩返しをしに行くつもりで意気込んでいた。それからすぐに、

 「はい、どうぞっ、コーヒー!」
 先にやってきたのはおばちゃんだった。自分の運の悪さを痛感しつつも、ありがたくいただいた。その日は結局コーヒーの恩返しができず、とぼとぼと帰宅。明日もいるかなぁと思いつつ、次の日は予定がなかったので朝から挑戦することに。
おばちゃんは、朝の開店前からやっぱりいた。常連客と楽しそうに話をしている。心からパチンコが好きなんだろうなと思った。
 もじもじしながら常連客と会話を交わし入店。でも、この日も恩返しができなかった。今思えば、別に当たらなくてもコーヒーを返すべきだったかなと思う。
 長い間忙しい日が続き、久しぶりに時間ができたので朝からパチンコを打ちに行った。寒さが厳しい中で、あの開店前の独特の高揚感を持ち開店を待つ人々。そこに過去に話したことのある常連客の輪ができていた。

 「あのジュースおばちゃん、死んじゃったんだって」
 駆け寄って聞いてみれば、やはり聞き間違いではない。ひどくショックを覚えた。名前も知らない。ただ顔だけは分かる、あの愛想のいいおばちゃん。実はあの時言えなかったけど、あの日差し入れてくれたブラックコーヒー は苦手だった。だけど今ではブラックコーヒーを愛飲している。パチンコを打っていてコーヒーを買いに行くたび、あの日の事を思い出す。そして当たったら、おばちゃんにコーヒーをご馳走してあげたい。……でもそれは叶わないのだ。
 短い間ではあったが、パチンコを通じて素敵な出会いとふれあいができた。パチンコホールでは、パチンコをただ打つための場所ではないことをおばちゃんから学んだ。
 おばちゃん、天国でもパチンコ打ってますか?
私はパチンコがやっぱり好きだ。

−終わり−

 私はもう、あなたとはお別れしたいの。あなたは、私の時間とお金を容赦なく奪い取るわ。心が折れそうになるまで打ちのめすこともあるわ。
 あなたは時々、とても冷たいわ。優しさのかけらも見せてくれない時があるわ。それでも私は、あなたが振り向いてくれるまで、一生懸命に玉を打ちこむの。打っても、打っても、あなたは知らんふりをするわ。入賞口にさえ玉を運んでくれずに、画面を動かしてはくれない。
 私の口から切ないため息がもれるころ、あなたは役物をガタガタさせたりするのね。熱いスペシャルリーチを私に見せたりして気を引くこともあるわ。私はズルズルとあなたの前から立ち去れなくなる。お願いだから、冷たくするのなら徹底的に冷たくしてちょうだい。私があなたをキライになれるまで、もうかまわないで欲しいの。あなたのすべてを忘れたいの。

 思い返せば、出会ったころのあなたはクールだったわね。静かで、優しかった。大きな音をさせることもなく、派手なアクションをすることもなかった。私の打ち出す玉を、大きく羽を広げて拾ってくれたわ。静かに、少しずつ、玉を出してくれたわね。
 出会ったころのあなたは、一日中一緒にいても目が疲れるなんてことはなかったわ。少しのお金を持って、あなたに会いに行くことができたわ。帰りには少し景品を渡してくれた。そのお陰でまた、あなたに会いに行くことができた。
 大らかで、静かで、優しい、あなたが大好きだった。そんなあなたも、変わってしまった。
 派手な装飾で自分を飾ったり、大きな音でびっくりさせたりするのね。あっちのランプをつけたり、こっちのランプを点滅させたり、忙しいこと。役物だっていっぱい付けて、ガタガタさせたかと思うと、今度は光らせるのね。

 でも、分かっているわ。あなたがそんなに派手になってしまったのは、私を楽しませたいからなのよね。ロングリーチ、スペシャルリーチで、私をハラハラさせたりドキドキさせたりしたいからなのよね。
 あなたの思うつぼよ。私はあなたに会いに行くたびに、心を高鳴らせたり、落胆したり、きりきり舞いをさせられているわ。あなたの前に座ったときの、あの楽しさは何なの。サンドにお金を差し込み、貸玉のボタンを押して玉を打ち出すときの心の震えがあなたに伝わっているかしら。
 やがてあなたは、キュンキュンという音とともに役物を動かしたり、光らせたりして私の気持ちをあおるわ。熱いリーチを何度も見せてくれるあなたに、私は予感する。そう、大当たりの至福の瞬間を。

 熱いリーチを見せてくれても、じらすように大当たりを外してばかりのときもあるわ。熱いリーチを外されたときの私は、とてもさみしくなってしまうの。泣きたくなってしまうわ。心の中では「早く当たって、早く、早く」とねだっているのよ。あなたには私の心の声は聞こえていないのかしら。でも、私をじらすのもあなたの演出なのよね。じらされればじらされるほど私は熱くなるもの。あの大当たりの瞬間が、よりいっそう嬉しいものにあるわ。
 あなたの前に座ると、私は冷静でいられなくなるわ。全身を熱い血がかけめぐり、一気に脳に到達するの。あなたのハンドルを握っているときは、私は危機と至福を同時に味わっている。あなたは私を興奮させるのがとても上手。音と光で私をとろけさせるの。リーチのあと、あなたの画面がステップアップするたびに、私はだらしなく鼻の穴を広げて、荒い呼吸を繰り返していることでしょう。さあ、そのあとは天国気分の連チャンか、地獄へ突き落された気分になるハズレか。あなただけが知っているのね。

 ああ、やっぱり私には、あなたとお別れすることなどできないわ。血をかわすような興奮と大当たりの時の幸福感を忘れることなどできないわ。
 あなたはだんだん派手に新しくなっていくけれど、私は年をとっていくわ。あなたについていけなくなる日が来るかもしれない。でもね、私がもっと年老いて、暇と孤独に悩まされるようになったときこそ、あなたにもっと会いに行くわ。あなたは、暇で孤独な私を慰めてくれるでしょう。相変わらず幸せなひとときを与えてくれるでしょう。
 あなたとのひとときを楽しむために、私はイソイソとホールへ足を運ぶわ。

−終わり−

 何故、パチンコをするのか?
 楽して景品を得たいからだろうと人は言う。
 何が楽なものか、戦利品を得られることもめったにない。あれは地獄だよ。
 それではどうして……?
 他人はどう思っているか知らないが、私はあの瞬間、夢の狩人になっているのだ。最古の人類アウストラロピテクス以来五百万年この方、人間はずっと獲物を求めて荒野を駆けずり回っていた、それも命懸けで。農耕らしきことを始めた時点で文明といっているが、その長さと言えば、それまでの時間の千分の一にも満たないのではないか。狩猟採取時代の方が桁違いに長く、その時の記憶が我々の血肉に深く刻み込まれ、それは本能と言ってもいいくらい我々を突き動かすのだと思っている。

 やたら人間、人間といって他の動物と区別し、ことさら理性的存在として持ち上げようとするが、人は動物と何ら変わらず本能に支配される存在なのである。およそ動物は生きている限り、獲物を絶えず求め動き回るものではないか。それが生きていることの証しというものであろう。
 人間が農耕や牧畜をするようになり、ある程度の飢餓は解消された。それは評価に値する。だが、食えればいいというものじゃない。人間の夢を追いかける本能はどうなるのだと、私は言いたい。絶えず獲物を探し、見つけ、追い求め、ようやく捕まえるという勝利感、恍惚感はいったい何処で充足されるのか。

 特に現代のように管理分業化されたハイテク社会では、そうした感慨は得にくいものだ。無論、日々の仕事にもそれに似た幾ばくかの要素はあるが、狩りほどのハラハラ、ドキドキ、そして成功した時の卓越した歓喜というものはない。
 それを手っ取り早くゲーム化したのがパチンコではないだろうか。ネオン煌めく空間を見つけると、いくらけたたましい騒音がしようとも、人はその脳裏ですぐさま原始時代に戻り、獲物を狙って荒野を闊歩しているのだ。そこで人は、職場の煩わしい人間関係も処理すべき仕事の煩雑さも全て忘れ、たまらない解放感に浸るのである。
 まずは、捕獲する場所を探す。
 これがなかなか難しい。

 できるだけ多くの獲物が通る所がいい。
 ようやくスポットを発見。すぐに確保する。他にも条件の良さそうな所も見え、しばしば目移りするが、今日はとりあえずここだと己に言い聞かせる。そして、どんな獲物が、どれほどの量が捕らえられるかと夢を見ながら時を待つのである。ひたすら大物が通りかかるのを祈りながら。
 と、さっき目移りした場所に……。それは結局、他の奴がいち早く仕留めてしまった。
 ──くそっ、やはり、あそこの場所が良かったのだ。
 後悔すること頻りだが、いや、こちらの方がもっと多くの獲物が捕らえられるのだと、またもや自分に言い聞かせる。

 ──自分の勘を信じろ! これは自分との闘いでもあるのだ。
 そうやって心中で呟きながら待つこと、かれこれ一時間。ようやく千載一遇の好機。一瞬の奮闘。だが、敵もさるもの、こちらの攻撃をかわし素早く逃走。洞窟で待つ妻子の姿が瞼に浮かぶ。今夜こそ、脂ののった鹿や猪の肉を彼等の前にドサリと下して見せてやらねばと思うのだが……。
 また待たねばならない。なかなか獲物は現れない。
 場所を変えるべきか?
と思った時、またもや大物が通りかかった。
 ──今度は逃さねぇぞ!
 慎重に構えて、遂に仕留める。心中で荒野にこだまするほどの雄叫びを上げる。

 ──この勢いで、まだまだいくぞ〜!
 かくてずっしりとした重みの獲物に笑みを浮かべつつ、家路を急ぐ。この時の悦びは何ものにも代え難いのである。
 しかし、そうした理想的展開はめったになく、ほとんどは矢尽き、槍折れ、ぼろぼろの態となって足取り重く帰るのがほとんどである。それでも飽くことなく、「明日こそは……」と夢を見て、次の日も再びネオン煌めく荒野に足を向けるのである。
 幾多の困難を乗り越え、遂に獲物を仕留める過程を思うと、どうしても得物を手に立ち上がりたくなるのである。危険にさらされることや矢尽き、槍折れることがいったい何だというのだ。羽根を持ちながら、射落とされる危険ばかりを気にして、飛ばぬ鳥に何の価値があろうか。人間は夢を見る狩人なのだ。そしてパチンコは、喧噪に疲れた現代人を暫しの間、雄々しい狩人気分にさせてくれるマシーン。
 私はそう思ってパチンコを打っている。

−終わり−

 私とパチスロとの付き合いは、もう12年以上になる。初めてパチンコ店に行ったのは、バイト先の先輩と。当然パチンコというものには全く良いイメージはなく、お金をむしり取られたらどうしようという位の心持ちだった。やっぱり負けてしまったのだが、ゲーム毎の緊張感、演出の高揚感、当たった時の満足感を感じた。しかし、それでももう行くことはないだろうというのが、初めての感想だった。ただ、最初に誘ってくれた先輩があまりにもしつこく誘ってくるもので、結局その後も通うことになるのだが……。
 最初の頃は負け続け、もう誘わないでくれと懇願したが先輩に聞いてもらえず、こうなったら勝つためにどうしたら良いかを考え、そうこうするうちに時は経ち……。もう最初に誘ってくれた先輩との付き合いはなくなり、結婚し、子供も生まれた。その時々で付き合い方は変わったが、今でも趣味としてパチスロは続けている。

 そんなパチスロに僭越ながらメッセージを送ろうと思う。今のパチンコ業界を取り巻くのは不安なことばかりだ。様々な要因から遊技人口は減少し続け、一人ひとりの消費金額も年々減少している。当然その流れは各ホールに影響を与え、それが遊技機メーカーにもダメージを与える。このまま業界の規模は縮小していく一方なのだろうか。現状を冷静に考えると何かヒントがあるのではないだろうか。
 スロットに限って言うと、今の機種のラインナップはどこのホールも、ジャグラーとその他多数のART機が主流だ。さらに、最近はボーナス非搭載のAT機がメインで、その他多数のART機の射幸性が高くなり、その間を埋めるよう機械がない。その上、主力となりえる新台も思い当たらない。

 したがって、ユーザーはイベントも開催されていないうえ、どれを打って良いかも分からない状態で、なんとなく射幸性の高い台に手を付けざるを得ないわけで、そこで勝てれば良いが、負けてしまえばもう打たないというのが多数なのではないだろうか。
 そうすると稼働が取れなくなり、設定も入れられなくなり、なお一層稼働が取れなくなる。これは十年ほど前のAT機全盛時代と全く同じ状況で、業界は結局、同じことを繰り返しているのではないかと感じる。そして十年前と決定的に違うのは、そこで流出したユーザーは戻ってこないということ。一発逆転狙いの機種がホールに何機種かあるのは悪いことではないが、そういうトレンドに流されて、そのような機種しかないことに不安を感じてしまう。

 何とかこの間を埋めることができれば、それこそ1万円でそこそこの時間を消費できる。ジャグラー以外の機械がスタンダードになれば、なかなか増加しない若年層のユーザーにも、入り口として訴えかけることができるのではないかと感じている。低玉貸しも手段の一つかもしれないが、そうすると20円そのものの稼働にはつながらず、パチンコのような1円がメインで4円がアップレートなものになってしまう危惧を感じる。

 つまり、ジャグラー以外でもっと投資金額を抑えた機種をメーカーには作って欲しいし、我々ホールも目先の利益にとらわれ過ぎず、一つひとつの新台を長期に運用できる努力を続けていくことが大事であると考える。またそこで、店の顔、ひいてはグループの顔になる機種を生み出すことができれば、それだけで差別化も図れよう。それこそユーザー側からしてみれば、店を決める決定的な差になるのではないだろうか。一ユーザーの私としても喜ぶべき環境である。
 これからもパチスロと趣味として仕事として付き合っていく中で、最初に味わった感動をこれからも感じていきたいし、たくさんの人にも知ってもらいたい。だからこそ、メーカー、ホール、ユーザー、取り巻く環境すべてが良い方向で循環し、成長していくことを願ってならない。

−終わり−

 ものの楽しみ方というのは、当然ですが人それぞれ違います。時代背景、環境、年齢、様々な要素が関係してくると思います。私も物事を楽しむことは昔から大好きで、修学旅行や運動会、遠足など、いつも待ち遠しかった記憶が今でも残っています。
 今、37歳になって楽しいことは何かと冷静に考えたときに、実はすぐには浮かんできませんでした。別に楽しいことがないという訳ではありません。正直、楽しみは沢山あります。人生経験を多少積んできていますので、楽しさの引き出しは増えています。頭の中の楽しみの円グラフは家族関係50%、仕事関係40%、趣味5%、パチンコ5%ぐらいではないでしょうか。

学生時代の15年前に比べると円グラフは大きく変化しているのも事実です。ちなみに学生時代の円グラフはあまり記憶にはありませんが、パチンコが50%ぐらいあったような気もしています。当時は友達に勧められてパチンコ屋さんに行った記憶があります。そこで友人からやり方を教えてもらい、楽しくなると、開店前から、友人と店に行き、閉店まで遊び、その後、友達と飲みながら反省会をすると言った、一連の流れを楽しんでいた記憶があります。それはそれで非常に楽しく、良い思い出となっています。

 社会人になっても、4〜5年間はそのような楽しみ方をしてきたと思います。そこで、作る人間関係も個人的には一つの手段として捉えており、積極的に同僚や後輩を誘っていました。好きなことがパチンコというだけで、趣味を共有している、好きなことを仕事にしているという考えで、パチンコを楽しんでいました。その根本の考えは今も変わりません。ただ今は、店長という立場で、パチンコ・パチスロの楽しみ方が変化してきています。社会人になりたての頃は休日があれば、友人や先輩、後輩を誘い、パチンコ店に行き、喜怒哀楽を共有して楽しんでいました。つまり、仕事以外の日、公休日を利用して楽しんでいましたが、今は変わってきています。正直なところ、公休日はあまりパチンコの事が頭にありません。家族の事が中心となってきています。

 私のパチンコ・パチスロの楽しみ方がどのように変化してきたかといえば、仕事を通じて、このパチンコ・パチスロというものを楽しんでいると感じます。特に今、楽しく感じているのが人材育成です。まさか、パチンコを通して人の成長に携われるとは思っていませんでしたが、実は非常に深いことだと感じています。
 私は人間が成長する為に一番大事なものは「相手を思う気持ち」だと思っています。また、自分の信念も「人を大切にする」というのがあります。これを我々の会社では「ホスピタリティ」と定義しています。また、一方通行ではホスピタリティとは言えません。一方通行はどちらかと言えば「サービス」と捉えています。サービスは今やどの接客業でも当たり前。お客様も、サービスを受けたからといって喜ぶことはないでしょう。それはされて当たり前だからです。

 実は今、私が楽しんでいるのはこれです。お客様にどれだけホスピタリティを提供できるか? 私の店ではこれを毎日終礼で討論し、その日実行したホスピタリティを発表。それが、本当にホスピタリティか、もしかしたら当たり前、ただのサービスではないか、という熱い論議を行っています先日もこのようなやり取りがありました。「お客様が煙たい顔をされていたので、マスクをお渡しした」というスタッフの行動事例について、終礼で熱く論議が始まりました。今、何処のホールでもマスクを渡すサービスはやっているから、これは単なるサービスであるという意見がありました。それに反論して、「お客様のそのような仕草を察知して行動するのは、お客様の期待を超えている、お客様の気持ち考えたホスピタリティ行動である」と意見が二つに割れました。

 今、楽しんでいるのはまさにこれで、全スタッフがお客様の気持ちを考えて、「どうすればお客様に喜ばれるか」「どうすれば、小さな感動につながるか」を毎日討論しています。みんな一生懸命で、「相手の気持ちを考えて行動しよう」と思えるスタッフがどんどん増えてきています。私の最終的な着地点は全員が「ホスピタリティあふれるスタッフ」になり、お客様が無意識で「この店、本当に居心地が良いな」と思える店にしていきたいと思ってい ます。サプライズ的な感動を1回受けると人間はどうしてもそれ以上を期待してしまいます。それよりも、「思いやりを常に持ち、毎日ちょっとした心遣い」が出来る店、まさに、人が集い、心が触れ合い、楽しさが共有できる店にしていくことが今の私の楽しみとなっています。

−終わり−

 私のパチンコ・パチスロの楽しみ方は3つある。
 1つ目は、純粋に演出を楽しむことである。私はパチンコ・パチスロを遊技するようになってまだ3年ぐらいで日が浅いが、それでも遊技機自体がとても進化・進歩していると感じる。私が始めた頃は、パチンコ・パチスロは画質がそれほど良くなく、役物等も少し動く程度だった。また演出そのものも単調……というか、なんとなく先が分かってしまうようなものだった気がする。しかし今では、画質が良くなり、3D等といった立体的な映像も表現することができている。演出自体も、突然発展したり、画面が固まったりするなど先が読めず、遊技していてとても驚かされる。

 何よりも私が凄いと思ったのは役物の動き、演出である。以前は本当に少し動く程度、ちょっと合体する位だったが、最近は台全体で役物を表現していると思う。画面や、その近くだけでなく枠が動いたり開いたり、とても派手になっている。私が個人的に驚いたのは、役物はパチンコにしかないもの、パチスロには無い、不要な物だと思っていたが、最近のパチスロにも役物が取り付けられていたことである。最初見た時は本当に衝撃を受けた。だんだんと演出を派手にしていく風潮なのかなと思った。しかし悪くはない、とも思う。こういった様々な進化・進歩を見て感動できることが、私の楽しみの一つになっている。

 2つ目は、携帯電話の普及に伴い最近よく見るようになってきた、自分の遊技記録を残していく「マイスロ・ぱちログ」である。何が最初だったのか分からないが、気が付いたら多く見かけるようになっていた。これらは携帯電話という身近な記録媒体の普及とそれに伴うブログやSNSの発達が関係しているのではないかと思う。「○○の演出を見た」「○○回数上乗せした」など、他人に自慢するために写メールに撮り、ブログやSNSに載せるという行為で広がったのだろう。しかしこれだと、細目に撮らなければならなかったり、そのタイミングを逃してしまったりということがある。

 そういうジレンマをなくしたものが「マイスロ・ぱちログ」だと思う。大体プレミア的なものや、自分の通算回数が記録されていくものなので、純粋に遊技を楽しみながら記録を残せる、とても良いシステムだと思う。しかしこのシステムは、そういう記録媒体という使い方の他にも、台のカスタマイズができるという機能もあり、その台を好きなキャラクターの音声に変更ができたり、BGMを変えたり、などという楽しみ方もできる。このシステムのほとんどにレベルがあり、たくさん遊技をする、またはプレミア的な演出を見ることでレベルが上がっていく。レベルが上がるとカスタマイズの種類が増え、遊技の幅が広がっていく。楽しみながら記録を残していける、この機能がとても気に入っている。

 3つ目は、その台について調べることである。調べるといっても数値的なことや作りのことではない。最近の台は、タイアップ機がとても増えていると思う。むしろメーカーオリジナルの方が少ない気がする。ほとんどがアニメやゲームが原作の物ばかりのように思う。私は比較的アニメが好きで、ゲームもする方なので「あれがパチンコ化するのか」など楽しみになる。また知らない作品でも、打ってみて面白いようなら、そのアニメやゲームについて調べたりする。調べることで、なんとなく見ていた演出が「あ、これあの時のあの場面だ」と分かったり、人間関係や時代背景が理解できたりして、より楽しく遊技することができる。そもそも、そのアニメやゲームについて調べること自体が楽しみになっているので、これからもタイアップ機が多く出てくれることを楽しみにしている。

 これら3つが私のパチンコ・パチスロの楽しみ方である。そしてまた別の楽しみができるのではないかと期待している。京楽というメーカーがCRAKB48という台を出した。これは毎週1曲ずつ、新しい歌が1時間毎に流れるというものだ。ちなみに期間は12週。それ以降は曲がローテーションで流れていた。何が凄いかというと、あまりイメージの良くないパチンコ・パチスロに、その時期一番旬な国民的アイドルを出すということである。しかも完全にメインとして。これは色々なことに影響を与えたであろう。パチンコ・パチスロに対する偏見が少なくなったのではないかと思う。このような演出は、今の技術力があるからこそできることだと思う。これによりまた同じような感じの歌のリリースが出るのではないかと期待している。

 これとは違うが、もしアニメのタイアップ機が出て、そのアニメが放映中だったら、そのアニメの進行具合に応じて台の演出が変わったり、演出が増えたり、そのアニメのエンディングで出たパスワードを入力することで台をカスタマイズできる、などということが出来るようになっていくのではないかと思うと、楽しみでしかたがない。
 日々、様々な台が新しく登場し、どんどん新しい発見がある。そしてただ新しい台ができるだけでなく、さらに進化・進歩している。2年、3年先の台が一体どんな風になっているのかと考えると、とても楽しみである。これからも革新的な台が出ることを私は期待している。

−終わり−

 私がパチンコ・パチスロへ伝えたいメッセージ、それは「ありがとう」です。今の私の生活はパチンコ・パチスロに出会っていなければ全く違うものになっていた事でしょう。
 私がパチンコ・パチスロと出会ったのは高校卒業後、関東の大学に進学し一人暮らしを始めた時でした。当時は部活動やサークルには入らず、ただ毎日を過ごすばかりでしたが、ある日偶然通った道にあったパチンコ店に興味を持ち、店に入って楽しめたことが出会いとなりました。それが後の私の人生に大きく関わることになるとは、その時の私には知る由もありませんでした。

 その頃は大学の講義が終わると飲食店で深夜のアルバイトをしていました。しかし、朝方まで働くことで学業に支障が出るようになり、他に学業に支障の少ないアルバイトはないだろうかと考えていた時、「ホールスタッフ募集! みんなと楽しく働きませんか?」という募集記事が目にとまりました。しかも高時給で深夜0時前に仕事が終わり睡眠時間を確保できるのが決め手となり、すぐ連絡を入れ、面接を受け、採用して頂けることになりました。そこで今まで以上にパチンコ・パチスロの楽しさ、奥深さを知ることになったのです。

 そんな私が「ありがとう」のメッセージを贈る理由は三つあります。
 一つ目は、精神面での成長を与えてくれたことです。パチンコ・パチスロを楽しむためにはお金が必要です。そして負けてしまうこともあります。負けてしまって何かに当たる人もいます。しかし私はその苛立ちを抑え、パチンコ・パチスロを楽しんだんだという気持ちへの切り替えをすることで感情をコントロールすることができるようになりました。精神的に成長することが出来たと思っています。

 二つ目の理由は、私に職を与えてくれたことです。あれは大学三年生の時です。就職氷河期と世間的に言われていた時、私は様々な業界の説明会に行きましたが、自分がしたいと思える仕事が見つからなかったのです。そんな時、続けていたアルバイト先の上司から「うちの会社の試験受けてみたら?」と声をかけてもらいました。私の中では社員として働く事はあまり考えていませんでしたが、会社の説明会で話を聞くにつれて私の気持ちはこの会社で働きたい、という思いに変わっていったのです。そして私は試験、面接をクリアし見事内定を頂くことが出来たのです。就職氷河期と言われる中で頑張れたのもパチンコ・パチスロの楽しさを知り、この道で頑張りたいと思うことが出来たからだと思います。

最後の理由ですが、これは三つの中でも特に「ありがとう」の気持ちが強いものです。それは、出会いを与えてくれたことです。パチンコ・パチスロと出会ってから様々な出会いがありましたが、大学生活も残り一年と迫った時アルバイト先で、本当に大きな出会いがありました。その頃は就職も決まり、講義も減り、アルバイトも多く出勤するようになっており、ホールのスタッフをまとめたり、新しいアルバイトの方の指導を任されたりする立場になっていました。そしてちょうど新しく入った方がいて、その方の指導を任されたのです。その人こそ私の人生のパートナーとなる女性でした。そんなことはこの時知るはずもなく、いつもと同じように、仕事を教えました。私はコミュニケーションをとろうと、休日にその女性を勉強のためにパチンコ店に誘い、そのうちに色々な話をするようになりました。仲が良くなるにつれ自然と交際が始まり、そして大学卒業し社会人となった時、その女性と私は結婚しました。今では子供にも恵まれ本当に幸せな毎日を過ごしています。

 これら三つの理由があり、私はパチンコ・パチスロに「ありがとう」と伝えたいのです。
 もしも、あの日偶然にもあのパチンコ店に興味を持ち、店内に入らなければどうなっていたでしょう。今の私は存在したでしょうか? それは私にも分からないことです。言えることはそれがなければ違う人生になっていたということ。そして私の最愛の娘がこの世界に生まれてくることはなかったということです。
 私に成長を与えてくれたこと。職を与えてくれたこと。様々な人との出会いをくれたこと。新しい家族、そして最愛の娘を与えてくれたこと。だから私は伝えたいのです。パチンコ・パチスロへ、「ありがとう」と。

−終わり−

 父が満面の笑みで向かってくる。僕は瞬時に勝ったんだと思う。父は小さいころからスポーツ一筋の男で、大学生時代にパチンコに出合ったという。スポーツ以外に趣味という趣味もない中で、こうした趣味にめぐり合えたことは幸せだとよく語っている。今日はどんなリーチがかかった、あそこの会社はいい台を作る、まさかこのリーチで当たるとは思わなかった、そんな話を聞くたびに、僕はパチンコに興味を抱いていった。初めてパーラーで遊技したのもそんな父と一緒だった。「おい、お前はこれやってみろ。好きだったろ」そういって父が指差したのは僕が大好きなエヴァンゲリヲンだった。父がくれたお金を入れると早速玉が出てくる。
 ハンドルをひねると玉がカチャカチャとテンポよく打ち出された。玉が釘の間を通りヘソへ入っていく。液晶がざわめき始めた。僕の知っているアニメとはまったく違った興奮がそこにはあった。パチンコ用に作られた演出、役物に瞬時に心を奪われた。ただただ凄いと興奮していた。

 しばらく打っていると横にいた父がそれ熱いぞ! と僕の台を指差してきた。液晶ではヒロインが月を背景にたたずんでいる。ハンドルを握る手に思わず力が入る。液晶では激しいバトルが繰り広げられている。バシャーンという音とともに僕の目の前には3という数字が並んでいた。玉が下皿に増えていく。目の前の液晶では歌とともにキャラクターの紹介がされていた。これなら初めてやった人にも物語がわかるなぁ、なんて感心していた。
 確立変動に突入し、僕の台は当たり続ける。気づくと僕の後ろにはドル箱の小さな山ができていた。
 大当たりが終わりそろそろ帰ろうかという父に、もう少しやらせてという。父はうれしそうな顔をしながら軽くうなずいた。その後は僕の後ろの山を少しだけ大きくすることができた。帰りがけ、車の中で楽しかったと伝えると本当に嬉しそうにタバコに火をつけていた。

 あの日から僕と父は、ある種のコミュニケーションの様にパチンコの話をするようになった。大学は地元を離れていて、夏休みやお正月しか帰省できない。その中でも僕が帰ると父は車を出して少し大きめのパーラーへと連れて行ってくれる。一人暮らししている間も一人で頻繁に打ちに行った。だが、父と二人で打ちに行くというのはすごく特別な気がした。お酒も飲めない父にとって、こういった遊びを息子とするというのには、何か思うところがあるんだなきっと、なんて分かったようなことを勝手に思っている。就職を考えるにあたり、大好きなパチンコ業界で働きたいと思うようになったのも父がきっかけだったんだと、今思い返す。
 僕が作った遊技機を父に楽しく打ってもらえるといいな、またぼくがそうであったように、誰かの人生の良いきっかけになってくれるといいなと思いながら、今日もパチンコを打っていく。  

−終わり−


絵手紙の部


*画像をクリックすると拡大します

大串勇二様

動画はこちら

佐間みどり様

動画はこちら

伊藤知沙様

動画はこちら
佳作
瀬尾千富様
松井加仁子様
金丸美志子様
橋口紀子様
真山正太様
藤田禅様
鈴木盛道様
長島勝治様
竹内新史様
栫美也様