エッセーの部

 九州から北海道へと移り住んで3か月、30歳目前での転職は結構こたえた。職場では心躍るような出会いもなく、毎日顔を合わせる職場のメンバーとは、独特の距離感を保ち続けている。「職場の人間関係の鉄則は、ドライであること」。そう自分に言い聞かせながら、慣れない雪かきへの士気を高める日々を過ごしていた。寒い冬の帰り道、ゲーセンの前ではしゃぐ女子高生や酔っぱらってつるんでいるサラリーマンを眺めていたら、「孤独だな」と思った。ずっと前から分かってはいたけれど――。急に普段の生活から離れたくなって、少し先のパチンコ屋に入った。こんな日の行動には、自分ながら驚いてしまう。
実家の父に何度か連れて行ってもらった経験がある程度で、「ひとりでパチンコ屋なんて初めて」だから孤独な上に緊張感もマックスだ。お財布には3千円しかないというのに「独りですが、何か?」という顔で、あえて堂々と入店してしまう、私はそんな人間なのだ。余裕を装いイスに座り脚を組む。押せるだけのボタンを押してみる……が、そこから先に進めない。すると状況を察した隣のおじさまが「お金はそこよ。そこ! こうすれば玉が出てくるよ」と笑いながら教えてくれた。よく見るとおじさまは耳にパチンコ玉を詰めている。「ありがとう。ベテランのおじさま」、心の中で呟き軽く会釈をした。右手を回すと、目の前のキラキラとした光に吸い込まれた。職場のこと、離れている友達のこと、不規則な生活のこと、自分のこと、色んなことを考えた。

時々、ド派手なスーパーリーチがかかると現実にすっと引き戻され、たとえ数字が揃わなくても「だよね」と納得したりした。最後の千円を入れ、帰りの電車の時間を計算していた時に緊急事態発生。あらゆる電飾が光り出し、「これも動くの?」という飾りまでがフル回転。テンションも高ぶる音楽とともに数字は揃ってしまった。「超KY! お金も無いし玉も無い。隣に父もいなければ友達もいない。だいたい私自体が孤独な人間なのに!」と必要以上の寂しさを感じ焦っていたその時、さっきのおじさまが何の躊躇もなく自分の玉をコップですくい、勢いよく私の手元に投げ入れた。「こういう時はちょっと勇気を出して誰かに玉をもらえばいいんよ。後で勝ち玉の一杯を返してもらえたら、こっちも縁起がいいしね」。耳の中の玉を光らせながらおじさまは笑った。勝ち玉という普段なら使うことのないフレーズよりも、勇気という言葉が私の耳に残った。
私にはいつもちょっとの勇気が足りなかった。人の輪に入ることを避け、何でも自分ひとりで解決することを最優先に生きてきた。一人暮らしをしていた学生時代、「困った時には誰かの助けを借りることも大事やけんね」とよく母に言われていたことを思い出した。あれから10年が経つ今も、私にはそれがなかなかできずにいた。そんなことを考えているうちに気が付くと、数字は揃い続け、手元には玉でパンパンになった箱がある。やばい、これ以上の玉抜きは危険すぎる。しかし店員さんの呼び方も私にはわからない。自分で箱を換えようか、いや、この重さは三十路間近の女手では無理だ、過酷すぎる。ふと母の言葉が頭をよぎる。そうだ、助けを借りなければ。私は勇気を出して隣のおじさまをじっと見つめた。子犬のような目で熱い視線を送り「もう玉抜きできないよ」と心の中で唱えた。するとおじさまは、私の視線にビクっと体を反らし「あ、あぁ箱ね、箱降ろしてあげるよ」。

私は声こそ出していないものの、おじさまからの助けによりピンチを免れた。
「お姉ちゃん、今日ついてるね」と自分のことのように喜ぶおじさまに心から癒された。正直、お姉ちゃんと言われたことにも快感を得ていたが。その日の私はおじさまの言うようについていた。その後も数字は揃い続け、その度におじさまに熱い視線を送ると「すごいね。どれどれ」と箱を交換してもらった。ここまでくるともはや二人三脚で、リーチの度におじさまの方がソワソワするまでに至った。3か月ぶりに笑った。そして、それまでの孤独を感じていた自分をちっぽけに思った。閉店を迎えるころ、私はコップ1杯分の勝ち玉をおじさまに手渡し、大きな声で「ありがとうございました。すごく楽しかったです」と言って頭を下げた。おじさまは急に礼儀正しくなって、耳の中のパチンコ玉を外し、「今日は良かったですね」と最後の挨拶をして見送ってくれた。おじさまの人の良さにまた笑えた。

帰り道、駅前の雑貨屋で「今日の記念」にと手鏡を買った。手鏡に映る自分は、思っていたよりもずっと元気な顔をしていて大丈夫そうだった。それ以来、私は「またいつかあの場所へ行こう」と思いながら、雪かきへの士気を上げている。あの日吸い寄せられるように入ったパチンコ屋、あの時の自分の心境と、その中で出会ったベテランのおじさまとの因果関係を考える度に、やっぱりちょっと笑ってしまう。私は前よりずっと元気になって少し強くなった自分が好きになった。

−終わり−

「八十二歳ですか、若いですね。秘訣は何ですか」とよく聞かれる。その度に私は心の中で「ウフフフ」とほほ笑む。私の生きる力、明るい心をいつも応援してくれたのはパチンコ・パチスロである。
網元の一人娘だった私。パチンコ大好き女とは、誰も思っていない。
終戦後、港町に開店したパチンコ店は、煙草の煙、荒くれ男、演歌、軍艦マーチと、とても若い女性が一人で入れる場所ではなかった。観光協会長や町会議員をしていた父はパチンコが好きで、時化で出漁しない時は母を連れてパチンコをした。その頃は、立って一個ずつ玉を入れてはじき、チューリップが開く台であった。
私は結婚し、二人の男の子に恵まれ、幸せを絵に描いたようなサラリーマン家庭であった。自動車販売会社に勤めていた主人も、営業所長、部長と昇進も早く、栗林に囲まれた二百坪の広い庭で、子供達ものびのびと育ち、幸せ一杯の私だった。
主人が五十三歳、私が五十歳の時、主人が突然会社を退職し、家も土地も売り払い、若い女性と他市へ移り住んでしまった。長男は結婚し、孫も生まれていた。次男も社会人となり自立していた。
丁度この時、市内に結婚式場がオープンした。長男の家に身を寄せて、私はパート社員でフロント係として働き出した。結婚式場の仕事が身に合って、水を得た魚のように生き生きと働いた。その結婚式場の前にパチンコ店が開店し、仕事が終わるとパチンコに直行した。演歌全盛時代で、新曲が次々と店内に流れ心が癒された。この頃パチスロもするようになった。

六十歳の時、乳ガンを発病し右乳房を全摘出した。乳房を失いながらも、一人生きる勇気が湧いたのもパチンコのお陰だった。
私が七十歳の時、主人がガンを病み、やせ細って帰ってきた。二十年勤めた結婚式場を退職し、長男の家の近くに借家を見つけ、主人と二人でのガンとの闘いが始まった。寝たきりになってしまった主人の介護に、二人の息子が一週間に一日ずつ泊りがけで来てくれた。その日は朝から風呂に入り、おしゃれをしてパチンコに行くのが楽しみだった。主人の家出も乳ガンも老々介護も、他人が見ると不幸な女のように思うかも知れないが、私にはパチンコの楽しみがあり、二人の息子も嫁さん達も理解してくれた。勤めを辞めた後も筆耕の仕事があり、パチンコの軍資金になった。テレビで中村玉緒さんが、パチンコ大好きとの話をして下さったことが、私にも大きな力を与えてくれた。

パチンコの海物語で魚群が流れる時、パチスロで「7」が並ぶ時、水戸黄門で確変が続く時、私の全身の血は若々しく踊るのである。パチンコ店も大型店になった。食事もできるし、コーヒーも飲める。煙草の煙も浄化されている。トイレもきれい。きびきびと笑顔で応対してくれる店員さん、いつもトイレをピカピカにしてくれているお掃除のおばさん。雨の日も風の日も広い駐車場を見回って下さる警備の方々。大当たりして景品に換える時、一緒になって喜んで下さる笑顔の店員さん、大負けした時も「この次頑張って」と励ましてくれる優しさ。

 隣同士見ず知らずの方が目押しのできない私に、さっと「7」を押して下さる。もう千円で出そうな時、玉を買おうとすると「これ使って」と声をかけて、手にすくって玉を下さる。助けたり助けられたり、パチンコの喜びも悔しさも知っている同志である。
若い女性から私のような老婆も多い。パチンコの悪いイメージは無くなっている。主人は今年の六月、七年忌を迎える。主人の葬儀の後、二人の息子に「親父と別れないで看病してくれてありがとう」と言われた。その時初めて便所の中で泣いた。主人も最後に「愛していた。ありがとう」と言ってくれた。息子と主人の言葉は、私の胸に女の勲章のように輝いた。
息子が休みの日は車で連れて行ってくれる。親子で肩を並べてパチンコができる喜び。日本一幸せな私である。息子と二人共通のパチンコ財布を持っている。二人とも負けた時は、ハワイ旅行に行ったつもり、車の事故に遭わなかった厄落とし、万歳! などと、似たもの親子である。天国にいる私の両親に今のパチンコをさせてあげたら、どんなに喜んだことだろう。あの世までの日々、私は若々しく目を輝かせて生きていく。
パチンコさん、パチスロさん、私の人生を支えて下さって本当にありがとう。心から感謝している私です。

−終わり−

あなたに出会ってもう十七年。
最初は、目押しも出来ずいつもスタッフか、
隣のおじさんにしてもらっていた私。
今では、当たり前のように出来る私。
当時は、リーチ目を知らず、あなたを理解できなかった私。
千円を握りしめ、朝一モーニングを狙っていたあの頃。
当時は、今より比較的に低資金で遊べていたのに。
時代が移り変わるようにあなたも変わっていきましたね。
性格が荒々しく暴力的になり、
よく私を困らせていましたね。
あの頃は、あなたと逢うたびにお金が湯水のように
無くなっていきました。
何度となく、あなたと別れようと思いましたが
それも出来なかった。
やっぱりあなたが『好き』だから。
でも、ある日突然、あなたはおとなしくなっていた。
あんなにも威勢のよかったあなたが
病にかかったように、弱々しくなっていった。
長い間の闘病生活。
やっと最近、回復の兆しが見えてきましたね。
私、待っています。
以前のように元気いっぱいのあなたを。
そして、これからもお付き合いよろしくおねがいします。
『ドキドキ』『ワクワク』をくれるあなたが
『大好き』です。

 「パチンコ」は、約5年前の私には無縁の存在でした。実際に遊技したこともなければ、パチンコ店に入ったことすらありませんでした。その当時、私が持っていたパチンコに対するイメージは、「店員が怖い、お客様が怖い、騒音が凄い、煙草の臭いがきつい」等、様々なものがありました。悪いイメージばかりです。
そんなパチンコに対するイメージが一転したのは、私が約5年前に「ひぐちグループ」という会社に就職したのがきっかけです。その会社には「まるみつ」というパチンコ部門があり、私はそこで働くことになりました。パチンコのことは右も左も分からない私でしたので、近隣の店舗で試しに初めて打ちました。入る前と入った後では、印象が非常に違いました。接客時の従業員の笑顔、丁寧な接遇、お客様同士の笑顔溢れる日常会話などです。また、店内も清潔にされており、不衛生なイメージはありませんでした。実際に中に入ってみないと分からないものだと感じました。

 それから実際に、私自身パチンコ業界で働くことになりましたが、肌で感じたのは、接客に対する徹底した力の入れようです。お客様の不安・不満に気付くスピード、お客様を案内する際の気遣い、一礼をする時の角度、挨拶をする際の声の大きさ、笑顔など、サービスに対して細かな部分まで教育設定がされていて驚きました。自分自身初めての就職ということもあるのですが、なにより、パチンコ店とはこんなにも細かい接客サービスがなされているということに感動しました。ですが、このサービス全てを実際に行うということは容易でありません。最初は一つ一つ意識し継続しなければ、自然に行うことができません。そのような接客をお客様に提供することが出来ず、クレームがお客様から出てしまい、不快な思いをさせてしまうこともありました。

 そのような中でも、お客様から嬉しい言葉を頂いたことがあります。
それは一月一日、正月のことです。私は朝からの出勤でした。世間の方々は家で過ごされているこの日にも、朝早くからお客様が来店してくださいました。その際、ある一人の男性のお客様から「今年一年もよろしくね、店員さん」という言葉と笑顔をいただきました。年の初めにこの言葉を頂いたことが非常に嬉しく、鮮明に覚えています。そして、言葉一つでこんなにも気持ちが違うということを非常に実感し、私はこの感動をお客様にも伝えていきたいと思いました。
時々お客様から「ありがとう」という言葉を頂くことがあります。パチンコで勝たれたお客様に限らず、負けたお客様からも頂きます。この業界は「ありがとう」とお客様から言われることが少ないので、その度に実感します。「ありがとう」という言葉は、こんなにも心が温かくなる、自然とお互いが笑顔になれる素晴らしい言葉なのだと。

だから、接客する際の「ありがとうございました」という言葉に、常に心から感謝の気持ちを込めるよう意識しています。何故なら、心の温かさをお客様にも伝えていきたいからです。
もう一点、パチンコ店で行っていることがあります。私が勤めている店舗では、お客様から「店内の清掃がいきわたっている」「見ていて気持ちいい」というお褒めの言葉を頂きます。その美観が維持されているのは、清掃、駐車場スタッフというアルバイトの方々の、日々細部まで行き届いた清掃の賜物です。さらに店舗周辺地域の清掃、草刈り・枝切り等も率先して行われています。していただいて当たり前という気持ちではなく、「いつも綺麗に清掃して頂いてありがとうございます」と感謝の気持ちを持って仕事をしています。

 現在、パチンコ施設も多種多様になっています。全館禁煙・一部禁煙などの煙草対策店。長時間遊技できる1円パチンコ専門店。玉箱がなくカード一枚に玉が入るシステム等です。現在のお客様のニーズに対して様々に変わってきています。5年前の私のパチンコに対するイメージとは、全く違うものです。このパチンコの良さを、経験したことがない方に伝えていきます。
仕事を通して、お客様だけでなく同じ働く方にも感謝の気持ちを忘れない。私がパチンコを通して学んだことであり、これからも心掛けていくものです。

−終わり−

 「パチンコと私」という題目を、私は「自分自身の人生」と考えています。古き時代、パチンコというのは今以上に世間の風当たりが強く、敬遠されていました。今は業界の方の努力で世間の見方は多少良くなってきていますが、まだまだ自分も含めて努力が必要です。
高校を卒業してすぐにパチンコと出会った私は、大学に入ってからも、その魅力により引き込まれました。大学の友達をよく誘った記憶もあります。高校時代に将来の事を考えても何も見えず、とりあえず大学は総合理工学部に入れば何かあるだろうという気持ちで大学も入りました。4年間理工系の勉強をしましたが、何も面白い事がなく、やはり仕事は自分の好きなことをやろうと、大学時代に決めました。大学の友達はみんなシステムエンジニアや、理系の大手企業を希望する中、私は一人、パチンコ業界を探していました。

友達からは、「せっかく理系の大学を出たのに」と言われましたが、私は一貫して自分の好きな事をやりたいと思い、最終的に今の会社に就職して早10年が経ちました。結果として、仕事にできたことには非常に満足しています。
今自分が従事していることは、とにかく、パチンコと言うイメージを良くすることです。私が勤務している店舗は20年の歴史があり、年配の常連様が中心のお店です。そこで一番大事にしているのはコミュニケーション、人と人とのつながりです。昔のパチンコ店のイメージは、店員が無愛想で、ホールの隅でたばこを吸うという姿が日常茶飯事でした。そんなイメージは今でも、完全にはぬぐえてはいません。パチンコ店で働く事を、親戚ももしかしたら良く思っていないかもしれません。
しかしながら、私は今の仕事に誇りを持っています。悪いイメージを払拭する為に、まずは何が必要か考え、一つの結論を出しました。

それは【従業員が楽しくやる】、これが一番ではないかと考えます。それがお客様に伝わり、店全体の雰囲気も明るくなる。私は常にそう思いながら仕事をしています。それも条件としては、全員が楽しく仕事をしないと意味がないと思います。
その為に、管理者として一番大事に考えているのが【従業員満足】、これにつきると思います。勿論、【お客様満足】という事が前提にありますが、【お客様満足】というのは正直なところ、計り知れない部分でもあります。お客様一人ひとり、個性も違えば考え方も違う。自店には、勝負に来るお客様は勿論おられますが、実はそうでもないお客様もいらっしゃいます。昨今では、遊べればそれで良い、スタッフと会話がしたいなど、勝負することだけが来店目的ではないという方も増えてきているのではないかと感じています。したがって【お客様満足】の幅も広く、こちら側が良かれと思う事が、逆に怒りを買うこともあります。最終形は【お客様満足】をすべてのお客様に行う事ですが、その前に私は、【従業員満足】を優先しています。

 特に、ホールを回っているスタッフは肉体的につらくなり、そのタイミングでお客様からクレームを受けた時など、適当にあしらう可能性が出てくると感じています。しかし、そのつらいホール回りを楽しくやることができていれば、クレームの対応の仕方も間違いなく変わると思います。その対応次第で、お客様の納得の度合が変わってくると感じます。その一つ一つの対応がお客様の満足度に現れ、スタッフの力でお客様の満足度にも差が出てくると、私は考えています。
店舗にある遊技機は、どの店に行ってもほぼ同じ機種です。どこで差別化するかは、店の雰囲気と従業員の接遇、私はこの部分が非常に大事だと言い続けています。
今、私の店舗では、接客の細部にまで力を入れています。その中でも、「あのお客様は、箱いっぱいになる前に降ろすと機嫌が悪くなる」等のお客様の情報共有に注力して、声をかけるタイミングなど、お客様の事を第一に考える事が一番大事だと思っています。

 結論を言えば、パチンコ運営も日常生活も同じことです。相手の気持ちを考え、気配り、心配りをすることで、人は喜び感動することができます。まさに自分の人生そのものです。ようやくこの歳になって、親の大切さ、家族の温かみが理解できるようになってきました。私の店舗は年配のお客様が約7割を占め、その方々は私の両親と同じくらいの年齢です。中には、私の祖父母ぐらいの方もいらっしゃいます。そのようなお客様を大事に、そして尊敬の念を持ち、今後も店舗でお客様と接する時は、自分の家族のように気配りや心配りを今まで以上に行い、温かい、地域に愛されるパチンコ店にできるよう日々精進していきます。

−終わり−

 ヒトは25万年前にホモ・サピエンスとして成立して以降、ほぼ進化していない。しかし人類はその身体外器官としての文明を変化&進化させて環境に対応し、また環境を改変して生存して来た。
パチンコ・パチスロという産業も、その環境適応の一環として形成された文明の一要素であるに過ぎない。それゆえに、近未来のパチンコプレーヤー、エル氏のパチンコライフは、現在の私達のそれとは若干、違ったものになっているだろう。
Scene1 会社の帰りに……
20××年代のパチンコプレーヤー、エル氏は今日も会社の帰りに寄り道をする。大好きなパチンコをお気に入りのホールで楽しむのは、仕事で疲れたエル氏にとって、唯一の息抜きなのだ。
リニアモーターカーを降り、歩くとその振動で発電する道路を1分も行くとホールに到着だ。

 この時代の人間がいつも身に着けている(ウェアラブル)A.I.が、遊技エリアの入り口で個人認証を済ますと、ゲートが開いて中に入れる。未成年者は休憩エリアとトイレまでしか入れない仕組みだ。
この時代のホールには、喫煙者や特に深くパチンコに耽溺したいプレーヤーの為に、個室やカプセルタイプの用意もあるが、非喫煙者であるエル氏は、両親が通ったと同じようなホール型のプレイングルームで楽しむことにしている。同様に、数千のコンテンツが楽しめるネットアクセス型の店舗もあるのだが、エル氏が選ぶのはリアルなプレイが出来るホールだ。
席に座ると、既に好みの台が用意され、貯玉から自動で玉が出てくる。当たれば貯玉が増え、無くなれば個人口座から自動で決済されて遊技が続けられる。

貯玉は好きな時にネットの景品コーナーから選択して、宅配で商品を受け取ることが出来る。景品は数万種類もあって、選ぶのに困ることは無い。
遊技しながら注文を出すと、ロボットがアイスコーヒーを運んで来る。もちろん、決済は貯玉から自動で行われる。もっと高級な店舗では、人間からきめ細かなサービスが受けられるのだが、エル氏は、完全自動型の気楽なホールが気に入っているのだ。
Scene2 連休に……
エル氏は年に数回、隣の県にある巨大なアミューズメントパークで過ごすことにしている。
そこにはカジノの一部として素晴らしいパチンコとパチスロの遊技場がある。特別行政エリア内なので、ここではグローバルスタンダードに従い、お酒も飲めるし決済は現金だ。

もちろん、現金といっても電子的なやりとりだが。レートも街場の遊技場より少々お高い場所もあるが、パチンコ用の口座を分けているエル氏には問題無い。負けたら温泉で休んで帰るだけのことだ。
遊技エリアのエントランスでは当然のように個人認証が行われ、非喫煙者向けのエリアに矢印で案内される。喫煙者向けのエリアはドリンクが有料だが、非喫煙者のエリアではフリーだ。エル氏はシャンパンを頼んだ。
もちろん、生きた人間がサービスしてくれる。
エル氏がカジノで遊ぶのはパチスロだ。様々な国からのお客様を眺めながら、ヘッドフォンを着けて、カジノの優雅なホールでのパチスロは、なかなか楽しい。街場のものよりも選べるコンテンツが豊富なのも良い。スロッターだった父親が遊んだ機種も、ここでなら現役だ。

 食事は豪華なダイニングで24時間、様々な料理がバイキングで楽しめる。料金は宿泊込みで決済してある。オプションで選べる、より豪華なコース料理は勝った時のお楽しみだ。軽いおつまみなら遊技しながらでも食べられる。
そして常に個人認証されるこの時代では、全てのお客様がマナーを守っている。安全で快適な空間だ。
Scene3 出張先で……
サラリーマンのエル氏には、時に長期の出張がある。繁華な都市部なら問題ないが、景観や自然を保護されたエリアでの仕事もある。
そんな時の息抜きは、携帯端末を利用した拡張現実での遊技だ。
ホールのカプセルシステムには到底及ばないが、サイトでも多くの機種の中から自分の好みを選択してパチンコやパチスロが楽しめる。貯玉も出来るし、少ない費用で楽しめるのも利点だ。

 音楽や映画のコンテンツ、あるいはロールプレイングゲームやテーブルゲームなどもネットでは豊富に選べるのだが、エル氏は短い時間でも陶酔でき、いつ始めていつやめても良いパチンコやパチスロは、やはり最高の娯楽だと思っている。
如何だろう。近未来のエル氏の日常は。超高度情報化社会とは、同時に超高度遊技社会でもある。人間は縄文時代以来、再び「遊び」を生活の主要な部分として位置付ける時代を体験するだろう。「消費」が「生産」であるような、経済も通貨も金融も、大きく変化する時代に変わらないもの。それは人間の「遊び」への欲求であると思う。

−終わり−

 最近になって会社や自宅の周りで、カラスの群れは見かけることはあっても、雀や鳩と言った鳥たちを見かけなくなってきたような気がする。
昨年11月の初め、業界のボランティア活動の一環として、私が大阪市内湊町駅周辺の清掃活動に従事した時のこと、ある高層ビル前のグリーンベルトを覗き込むと、洗濯用のハンガーが何本も落ちている。「はてさて、何故なんだろう?」と植樹を見上げて原因が分かった。そこには恐らく50~60本もあろうかというハンガーが、枝と枝を上手く組み重ねながら、見事なカラスの巣を形成している。環境問題が世間で騒がれるようになって久しい今日、鳥たちにとっても都会のこの環境下では、きっと住み辛いに違いない。ところが、カラスはこの環境下にあっても、人の住む所には共存共栄するかの如く、見事に住みついている。

 この巣から私が感じたことは、我々業界人は地域の中にあって、地域との共存共栄を図る活動もしないといけないということ。孤立無援策を続けていると、雀や鳩のようにその数を減らしてしまうのではないかと思う。
少し前、タイガーマスクを名乗る人物から、多くの子ども達にランドセルのプレゼントが届けられたという美談があった。テレビに流れた街頭インタビューで、多くの普通の人は「良いことなので、私もしてみたい」と言う。ただ問題なのは、いつ、その行動を起こすのか……と思う。
けっして高価なものでなくてもいい、要はボランティア活動のように清掃することだって良いと思う。そこに色んな人々との繋がりが生まれ、地域との共存共栄の環境が培われるように思う。

 一方、30年以上パチンコ業界の景品市場を眺め続けてきた私には、このところ気づいたことに、数年前のフィーバー機の規制やスロット規制以降、目立って10000円位の高額景品が出なくなり、替わって菓子、食品、酒類、日用品等の出庫が目立って多くなってきた。
勿論、高額景品に際立った売れ筋商品がなく、パチンコファンには交換意欲が湧かないと言うのも一理あると思うけれど、我々業者においても、ファンに支持されるような景品を提供しなければ、先の雀や鳩の話ではないが、共存共栄は難しくなる。
事実、この数年で大阪の景品業者だけでも数社閉店している。景品の品揃えを見る時、明らかなミスマッチ商品を陳列して、大事なファンを逃がしてはいけないと思う。

例えば、アウトドアレジャー用品やアウトドアスポーツ用品などは、たまに来られるファンや飛び込み型のファンには良いかもしれないが、常連のファンはパチンコでプレーすることが一番であり、日々の時間の多くをパチンコに割いてもらっている。実際に統計を取った訳ではないので、そのアイテム未扱いの変遷を論証できないが、少なくともこの数年は、お店からの要望もないし、扱いが無くなっている。
では、喜ばれる景品とはどんなものだろう? 私の思うところでは、「喜ばれる物の連鎖」であると思う。例えば、お菓子の景品を交換した時に、本人がその景品を利用しなくても、家族や友人にプレゼントした時に、受け取った人がありがたいと思ってもらえる品物が、喜ばれる景品であると思う。
反対に、最近出庫が減ってきた景品に「使い捨てライター」がある。

タバコの値上げで禁煙者が増えてきたのも事実であるし、またその景品を他人に譲っても、先のお菓子の例にもあるように、受け取り側も差ほど喜ばないからかもしれない。
現代はインターネットの普及により、新台情報、お店情報、ゲームサイトなど、我々は家に居ながらにして、疑似体験や業界情報を容易に入手できるようになった。テーマにあった「未来のパチンコワールド」は、三十年前初めてフィーバー機が登場した時のような、業界が一変するかのような世界を夢みたところで、現状は楽観できるような状況にはない。
しかし、こんな時だからこそ、先に掲げた「地域での共存共栄活動」による社会貢献や、「ホスピタリティーの追求・向上」など話題性を強調し、インターネットにはない人の温もりを感じさせるお店や業界になってくれば、かつて3千万人とも言われたパチンコファンもまた、お店に来てくれるのではないかと思う。

−終わり−

事務所のモニターの片隅には、「ゆく年くる年」が映っている。
「もう年を越すのか」
店長の修治は一人小声でつぶやいた。気が付けばこの数年は家族と年を越していない。修治には八歳になる娘がいた。先日の休みに遠出をした時、一緒に買ったブレスレットをぼんやりと眺めていた。この業界に勤めて十二年になる修治は、毎年の事だとは分かっていても、少し寂しい気持ちになっていた。さっさと切り上げて、家で少しでも家族と過ごそう。そう思いながらハンマーを片手に取り、ホールへ向かおうとした時だった。激しい頭痛に襲われ、修治はその場に倒れ込んだ。
何時間経ったのだろう? 近くで波の音が聞こえる。次第に意識が戻ってくる。目の前には砂浜とホテル群が建っていた。俺は死んだのか? 夢でも見ているのか? 状況が分からない……ただ、倒れた事は覚えている。

 しばらくすると、老人が歩いて来るのが見えた。修治は老人の元へ駆け寄った。
「すみませんが、ここはどこですか? 今日は何月何日ですか?」
矢継ぎ早に質問をした。
「ここは沖縄、今日は2066年1月1日」
混乱した。だが、老人が嘘をついているようには見えなかった。どうやらここは、未来の沖縄らしい。困惑した修治だったが、何故だかこの老人には妙な親近感があり、自分の身に起きた出来事を信じてくれそうな気がした。修治は、ただありのままを老人に話した。
「パチンコか、懐かしいな。わしも昔はパチンコ店で店長をしていた事があるんだよ。五十五年前か。苦しい時代だったな」
懐かしそうに回想する老人に、修治はこの五十五年間にパチンコがどう変化していったのかを聞きたくなった。

 「今、パチンコはどうなっているんですか?」
「もう無い」
パチンコが無くなった? 確かに苦しい時代に突入していたが……。
「なぜパチンコは無くなったのですか?」
老人は砂浜に座り込み、語り始めた。
「あの頃、わしも店長をやっとった。四円パチンコは、多くのお客様から支持されなくなり、一円パチンコなどが出始め、それでなんとかパチンコ人口を引き留めていた時代だった。その五年後だよ、パチンコ法案が可決されたのは。自由競争が激化し、一気に大手数社にまで法人は減った。封入式パチンコが出始め、コンビニ型のパチンコ店が出始めたのもこの頃だ。画一的な手法で、どこの店に入っても似たような店ばかりだったが、景気が回復し始め、再び高レート、高玉単価の営業時代に戻った。同じ過ちを繰り返した。

再び遊技人口が減り始めてきたが、かつての不景気時代とは違い、その速度は以前に比べて遅かった。だが再び時代が変わる。数年後、カジノ法案が可決する。カジノ法案が通っても、大した問題ではないと思っていた。事実、この沖縄と東京、大阪、北海道の四か所しか建設は許されなかったが、予想以上だった。高齢化が始まった日本では、行楽施設や温泉施設を備えたカジノは、定年を迎えた老夫婦の旅先に、また様々なレートで安心して遊べるカジノは、若者のデートスポットになった。それでも、遠くの娯楽より近場の娯楽で十分商売になると思っていた。遊技人口の減少はさらに加速していく。高齢化だけでなく日本の人口自体が減っている中、再び不景気が日本を襲った。慌てたわしらは、再び低レートのパチンコを復活させたが、遅かった。海外各国、国内から認知されたカジノと、海外からの認知が無いパチンコでは、その差は歴然だった。

さらに追い打ちをかけるように、第二カジノ法案が可決される。この第二法案で、国営のネットカジノを始めた。これで近場の娯楽がパチンコではなくなった。携帯のアプリでも、パソコンでも、どこででもカジノが出来るようになった。そこから先はもう言わん……」
「パチンコはカジノに負けたってことですか……」
声が震えていた。
「いや、カジノに負けたわけじゃない。パチンコ法案が通った時、カジノ法案が通るのは誰もが理解していた事だった。パチンコは身近な娯楽として、あの時代の教訓を活かしてこなかっただけだ。景気が回復しようと、新たなユーザーを創出する術を使い、多くの人を楽しませる娯楽に徹する事が出来なかっただけだ。パチンコはカジノと違って、選択の自由が無かった。

覚えているだろ、昔はラッキーナンバー、定量制、権利物など、様々な機械や営業手法があった。だが、パチンコはそれをやらなかった。低ベース、高レート、高継続率……かつて失敗した手法に固執した。共存する術は沢山あったはずだ。私利私欲に負けたんだ、業界は……」
言葉にならなかった。ただ、未来を知った者として、何としてでも過去に戻りたかった。
「とにかく僕は過去に戻ります。この未来を少しでも変えたいです」
修治はお辞儀をすると、老人は頷いた。老人とは逆の方へ走り出したその時だった、老人が大声を上げた。

「あんた一人じゃ、何も変わらんよ」
手を振る老人を見ると、ボロボロだが、どこか見慣れたブレスレットが左腕に巻かれていた。

−終わり−

 自宅付近にある3件のパチンコ店を辿っていくと、仲間への緊急連絡網が機能した。もちろん仲間の全員がパチンコ店にいる訳ではないが、そこで会った数人に伝えれば、ほぼ全員への連絡が数時間のうちに出来たからだ。まだ携帯電話の普及なんて夢にも思わない時代に、自宅や職場以外の場所で仲間を捕まえるのは困難を極めた。
ある日の夕方、仲間からの電話が運よく自宅に居た私に繋がった。
「大至急、B型の奴を集めて欲しい」
ある仲間の親父さんが吐血して病院に運ばれ、下血まで伴い非常に危険な状態な上に、血液が足りなくなる恐れがあるとのことだった。

 私が受けたのと同様の電話を数件にした後、自宅から一番近いパチンコ店エイトに向かった。呼び出しの電話をかけても良いのだが、当時はカウンターで呼び出しの連絡を受けても、店内の喧騒でお世辞にも聞こえやすいとは言えず、相手に内容が正確に伝えられるとは言い難かったからだ。
エイトには残念ながら、仲間の姿は一人も無かった。しかし、仲間に繋がる人達の姿があった。ユキオの爺ちゃんと婆ちゃん、テツヤのちょっと年の離れた兄ちゃん、ラーメン屋のシンちゃん、新聞屋のタカハシ先輩、芸者置屋のナオミさん、居酒屋のセガレのタキモト先輩などが、ビックシューターやゼロタイガー、スーパーコンビなどに興じていた。それぞれの耳元で「誰か仲間を見つけたら、とにかく病院に集まるように言ってくれ」との伝言を残し、パーラーみどり、次いでセンターと3件を回り、とにかく手当り次第に同様の伝言を頼んだ。

 私自身は残念ながら提供出来る血液型ではなかったので、特に役に立てる事はないのは承知で、途中で捕まえた仲間の車に同乗して病院へ向かった。最初に私が電話を受けてからおよそ3時間が経過した頃、病院に到着した私は思わず目を見張った。通常外来はとっくに終了していて、普通なら暗く閑散としているはずのロビーには、ざっと見ても30人以上の仲間とともに、私が声をかけた人達の一部も集まっていたのだ。その中にはエイトの店員も2人いたのだが、彼らは治療中の父親とも、その息子である仲間とも面識はなかったので、驚きながらも駆けつけてくれた事に礼を言った。
少々間の抜けた事に、それだけの人達が集まってくれたにも関わらず、集めたはずのB型には、ほんの5人程度しか該当しなかったのだが、出来る限りの血液提供をしたようだった。

 翌々日の早朝、長時間に及ぶ手術と懸命の治療の甲斐なく、仲間の父親が亡くなったことを聞いた。
あれから20年以上が経過した現在、件のパチンコ店は3件とも既に廃業しており、私自身もその地元を離れて暮らしている。当時の仲間達と会うことはおろか、交流すらほとんどなくなってしまったが、パチンコ・スロットは続けている。北関東の外れだが、高速道路の整備などの恩恵もあり、ちょっとした地方都市となった現在の住処からは、車で15分圏内だけでも10件以上のパチンコ店があり、設置している台や営業形態、財布事情など、多様な店選びができるのは喜ばしいことだ。

 それでも私は、ほとんど同じ店舗にしか行かない。超優良店という訳でも、設備が充実している訳でもなく、接客は地域内でも決して良い方ではないにも関わらず通い続けている。
何故か年齢に反比例して自由になる小遣いが減っていくので、昔ほど通いつめることはないが、数人の店員の顔を覚えられる程度には通っている。
単純に勝つことだけを求めるのなら、他の店舗に行った方が良いのに、なぜ……。この店舗には、同じアパートの住人が働いているのと、ここに越して来てからずっと通っている床屋のマスターが通っていることを知って、奇妙な安心感と連帯感を、このたった2人から感じているからだった。

 年々人付き合いが苦手になっていく私は、隣近所に住む人がどんな顔なのかもほとんど知らない。それで寂しさを覚えるほどではないが、20年以上前のあのパチンコ店を介しての地域コミュニティー的な感覚を心のどこかで求めているのかもしれない。
打つ以上は勝ちたいのが本心だし、打っている時間のほとんどは無言で過ごしているけれど、演出の一つ、大当たりの一つ取っても、素性を知らない他人と一喜一憂出来る類まれなる趣味がパチンコ・スロットであり、その場所を提供してくれるのが私にとっての優良なパチンコ店である。

−終わり−

 僕がよく行くホールには、何人かの特別な〈友人〉がいる。直接の知り合いではないし、ほとんど言葉を交わしたこともない。それでも彼ら、彼女らは〈同士〉であり、〈ライバル〉でもあるのだ。
一つの台に座ったら、出ても出なくても絶対に動かない中年男性の〈地蔵〉さん。逆に、やたら台を移る若者の〈トンビ〉くん。とにかく台を叩きまくる熟年カップル〈ジャージ夫妻〉。しきりに話しかけてくるのだが、ほぼ意味不明な〈はなもげら〉さん、等など。本名は知らない。僕が勝手に命名し、心の中でそう呼んでいるだけである。何度か見かけるうちに容姿が記憶に残るようになり、行動に特徴のある人たちなので、いつしか完全に認識しネーミングに至った。不思議なもので、そうなると親近感が沸くものだ。
今日は〈地蔵〉さんは、どうかな? なにせ動かないから、勝つときは大きいがハマリもきつい。

ドル箱を積んでいるのを見るとホッとするが、淡々と紙幣を投入し続けている姿には、他人事ながらハラハラする。〈トンビ〉くん、そんなにあちこちで打っていると、いつか自分のやった台で誰かに当てられるぞと思っていたら、案の定。その台の行方を気にかける彼の表情には、悔恨と反省が浮かんでいた。僕も同じタイプなのでよくわかる。アクションの大きい〈ジャージ夫妻〉の近くは、音と振動が激しいので遠慮しておく。別のシマにいても、お二方が遊技中であることは伝わってくる。僕が激熱リーチを外したら、近くに座っていた〈はなもげら〉さんが、「惜しかったね」的なこと言ってくれたが、店内の喧騒も相まって聞き取れず、曖昧な笑顔で受け流す。だいたいこんな日常である。
そんな〈同士〉たちが、期せずして〈ライバル〉になることがある。もちろんこれも実際に競い合うわけではなく、自分の中だけでの勝負というか、葛藤である。

昨日大勝した台を今日も狙おうと、ホールに向う。パチンコは〈確率のゲーム〉であり、前日何度も大当たりを引いた台が翌日も出るという保証はなく、確率論的にはマイナス要素の方が強い。そんなことは重々承知していても、つい「夢よ、もう一度」となるのが人情だ。どんな賭け事でもそうだが、始める前は当然いつも勝つつもりで行くわけで、この日も期待に胸を高めて赴いた。ところが、勇んで「僕の台」に直行したところ、なんと、既に誰かが座っているではないか。しかも〈地蔵〉が!この際、敬称は省略させてもらう。あの人が鎮座してしまったら、もうお仕舞いだ。テコでも動かない。まだ当たりを引いていないのがせめての慰めだ。近くで見ているのは心臓に悪いので、別のシマへ移動する。

気になる台があり、よしココだと決めようとしたとき、同じ列に〈ジャージ夫妻〉がいるのを発見。今日も叩くんだろうなぁ……。はい、叩きます。二人して、親の仇みたいにボタンを連打している。そのうえ、夫のほうが当ててるじゃないの。「な、叩いたからだよ」みたいな得意気な顔をして。こりゃ、ダメだ。また移動。離れて行きながら、視界の隅に、〈トンビ〉が僕の座ろうとしていた台に飛び移っていく姿が……。
結果はご想像の通り。僕は1回も大当たりすることなく、昨日の勝ち分をすべて吐き出した。帰りに因縁のあった台を覗いてみる。恐いけど、確かめずにはいられない、やはり……。〈地蔵〉は大爆発、〈トンビ〉も何箱か積んでいた。ついでに、〈ジャージ夫妻〉も二人して連チャン中である。

どの台も僕は一発も打ってないのだし、皆さんには何の非もないことは分かっていても、「やられた」という感が強い。もし〈地蔵〉より先に到着していたら、もし同じ列に〈ジャージ夫妻〉がいなかったらと、詮無いことを考えてしまう。パチンコ愛好家ならこの気持ち、お察しいただけるのではないだろうか。
帰り道、交差点ですれ違った男性から会釈され、戸惑った。見覚えのあるような、無いような。あっ、〈はなもげら〉さんだ! ホールで会う人って、概ね後ろ姿か横顔しか見ておらず、正対する機会は滅多にない。振り返ると、そこには見慣れた背中があった。「ま、明日があるさ」と言ってくれているようだった。
パチンコの〈友人〉は独特である。向き合うことも語り合うこともないのに、なんとなく心が通じ合う。なかなか他の場所ではそんな人たちとは出会えない。

−終わり−

 僕とパチンコとの出会いは十九歳の時で、もうかれこれ三十年の付き合いになる。僕はこれまで幾多のパチンコ台との出会いと別れを繰り返してきた。その多くの記憶が今は色褪せてしまったが、たった一人のお婆さんとの出会いだけは、今でも鮮明に僕の心の奥に残っている。
高校卒業後、東京に就職が決まって、東北の田舎町から上京してきたばかりの僕は、大都会の煌びやかな街並みなどの目に映る全てのものがお洒落に見えて、やれファッションがどうだとか、洒落たお店がどうとか、いい女が……みたいな、そんな日々を送っていた。そんな感じの若者だったため、僕のパチンコに対する当時のイメージは「おっさん達の溜り場」みたいな印象でしかなく、全くと言っていいほど興味がなかった。

 そんな僕が、どうして上京したばかりの年にあっさりとパチンコをするようになったかと言うと、答えは単純で、僕の住んでいたアパートの直ぐ目の前に、一軒のパチンコ店があったからだ。店の名前は確か、「花壇」だったと記憶している。
初めての日の僕は、先ずどの台を選べばいいのか、その後どうやって遊べばいいのか、わからない事だらけで、自分がこれから「してはいけない事」に手を染めるような、妙な罪悪感を覚えてしまい、今思えば笑ってしまうが、「陰りのある大人の男」になったつもりの自分がそこにはいた。その日以来、割と頻繁に店に顔を出すようになった僕は、遊技中にうまくいかない事があると、不埒にも台を叩くようになっていた。

 そんなある日、台を叩いている僕の隣の席に、一人のお婆さんが座ってきた。そして、僕の目の前に手を差し出してきた。お婆さんの皺だらけの小さい手の中には、アルミホイルに包まれた一個の稲荷寿司があった。突然の出来事に、僕は狐につままれた気分になりながらも、なぜだか素直に受け取り、お婆さんと一緒に台の前に座ったまま無言で稲荷寿司を食べた。稲荷寿司を頬張っている僕に、お婆さんが静かに言った言葉は、「台だってぶたれたら痛い。でも、お兄ちゃんの手の方がもっと痛いだろうに、何もならんことはしない方がいい」。それ以来、僕は台を叩くことを止めた。いつしか僕とお婆さんは、一緒に並んでパチンコを打つほど親しくなり、お婆さんはいつも手作りの稲荷寿司を僕にご馳走してくれた。

 お婆さんは店の常連客の間でも人気者で、誰からも慕われていた。そんな物腰の優しいお婆さんでも、二人の年配女性に対して厳しく叱咤している光景を、僕は一度だけ見たことがある。その後お婆さんが僕の隣に座ると、僕に言い聞かせるように呟いた。「パチンコと遊ぶのに、人から金を借りてまでやってはならない。無くなったら、今日はおしまい。パチンコは今日で無くなるものじゃない、また明日の楽しみ。でも、ここでの金の貸し借りは、人の間が今日で無くなってしまう。やっちゃ駄目だよ」。そう言い終えると、お婆さんは僕の顔を覗き込み、そして優しく笑った。

 お婆さんとの出会いから数年が経ち、仕事の関係で長い期間東京を離れることになってしまった僕は、その後二度とお婆さんに会うことはなかった。今では僕の住んでいたアパートも無くなってしまい、お婆さんとの思い出の店も、違うお店に変わってしまっていて、当時の面影は残っていない。後から振り返れば、僕はお婆さんの住んでいた家も、名前すら知らなかった。ただ、一軒のパチンコ店という小さな世界に、言葉では言い表せない大切な何かが存在していた。

 お婆さんと一緒に並んでパチンコを打っている時、他界されたお爺さんとの思い出話をよく聞かされた。二人で沢山の玉を出した時のはしゃぎぶりや、その日の晩御飯の贅沢話。二人で負けた時は、いつも帰り道で励ましてくれたお爺さんの事。お婆さんの話は全て、二人の間にはいつもパチンコがあり、笑顔が満ち溢れているものばかりだった。僕は、いつも同じ機種の台にしか座らなかったお婆さんのことを、あの頃不思議に思ってはいたが、今その理由がとても良く分かる。自分にとって大切な人が愛した台、そして二人の思い出が詰まった台、そのたった一台のパチンコが存在する限り、台と向かい合った時、人は幸せな想いで心が満たされるのであろう。

 もし、あの生意気な若者だった頃にお婆さんとの出会いがなかったとしたら、現在の僕のパチンコに対する付き合い方や特別な想いは、存在しなかっただろう。勝ち負けによる喜怒哀楽だけがパチンコとの結び付きではない。それぞれの人が自分の中のルールを守ってパチンコと向き合い、幾多のパチンコ台に込められた懐古や感動を大当たりの喜びと共に、愛する人や友人、そして多くの人々と共有することが、人と人との絆をより深めてくれるものだと僕は思う。
お婆さんがお爺さんの話をしていた時の幸せそうな横顔を、今も忘れられない。

−終わり−

 汚い。うるさい。煙草の煙。
これが、三十二年間生きて、一度しかパチンコ店に行ったことのない私のパチンコ店の印象。そんなパチンコ店が、私と父の絆を深めてくれた。
昨年父が定年を迎えた。仕事一筋の真面目な男で、仕事が生き甲斐であり趣味でもあった。まだ働きたい思いを持ちながらも、会社から出勤回数の制限を受けた父は、仕事日でもないのに「仕事に行ってくる」と母に嘘を言い、ふらっとどこかに出掛けるようになった。その行動を心配した母が、私に連絡してきた。直接質問しても、頑固な父が素直に行先を白状するとは思えず、私は父を尾行した。
父が向かった先。それが近くのパチンコ店だった。大音響の音楽。稼働するパチンコ、パチスロ機の音。そして客の熱気。私が敬遠していた世界に父がいた。父はわずかばかりの現金を玉に交換し、パチンコ台の前に座っていた。

しかし、機械をじっと見るだけで、なかなか玉を投入しない。やっと打ち出したかと思ってもすぐに手を止め、また画面を凝視する。そんな調子だから手元の玉は減らず、時間だけが過ぎて行く。定年を迎えた男の姿としてはあまりにも寂しすぎたので、私は思わず声を掛けてしまった。
「パチンコっていうのは、もっと玉を打っていかないと、大当たりしないもんじゃないのか?」
私に監視されていたことに気づいていたのか、話しかけられても父は驚くこともなく、
「そうだな」と画面を見たままだった。
「仕事に行くと言いながら、毎回パチンコしてたのか?」
「黙って出掛けるよりはいいだろ。それより覚えてるか? お前が子供の頃、一度だけ一緒にパチンコ屋に行ったことがあるのを」

 当然覚えている。覚えているからこそ、私はその一度しかパチンコ店に足を踏み入れていないのだ。
私が子供の時から父は仕事ばかり。日曜日でも家に居ない。しかし夏のある日、台風で珍しく仕事が休みになった。すると父が、「好きな所に連れて行ってやる」と予期せぬことを言った。一緒に行きたい所はたくさんあったが、あまりに突然だったのと、外が台風だったこともあり、「パチンコ屋に行きたい」と答えた。その当時の私は、テレビ番組で何度も見ていたパチンコに、ずっと興味を持っていた。父は望み通りパチンコ店に連れて行ってくれた。でもそこは、私が想像していた場所ではなかった。店内はただただうるさく、煙草の臭いが充満し、大人たちが険しい顔でパチンコ台と睨み合っていた。想像と違い、すぐに帰りたくなったが、「せっかく来たから」と父に言われ、少しだけパチンコを打ってみようとした。

すると、
「ガキがパチンコすんな!」
間髪入れず、隣の男性に怒鳴られた。私は泣きながら帰り、その日以来二度とパチンコ店に行かなかった。
「あのころと比べれば、パチンコ屋もずいぶん変わったな」
父は絵柄がころころ変化する台を面白そうに見ていた。確かに、昔のパチンコ台とは比べ物にならないほど、現在の台は奇麗で絵柄も豊富。店内も清潔で換気が行き届いているのか、煙草の臭いも気にならない。「まるでアニメを見ているようだ」。映画のように画面が変わり、飽きずに見られるパチンコ台。なるほど、と思った。父は、パチンコをするというより、台のアニメを鑑賞していたのだ。父が座っていた台は「北斗の拳」。私が子供の時好きだったアニメで、漫画本も集めていた。父も何度か読んでいた。
「子供のお前と一緒に出掛けたのがパチンコ店で、その店で一緒に読んだアニメと出会った。ここに来ると昔を思い出せる」

 その言葉に胸が熱くなった。お互い年を取り、昔を懐かしむ年齢になっていた。でも思い出だけは、お互いに忘れていなかった。父の隣に座り、私もパチンコを打ってみた。アニメを見ていると童心に戻れた気がした。そして、父と肩を並べられていることが嬉しかった。
それから週に一度、父とパチンコをするようになった。勝ち負けはどうでも良かった。世間話、仕事の話、今後の人生の話など、父と語れるのが楽しかった。店員に頼めば、コーヒーなど喫茶店並みの飲食も運んでもらえ、時間を忘れて台のアニメを鑑賞した。子供の時、触れ合えなかった時間をパチンコ店で取り戻した感じだった。
昔よりはるかに奇麗に変化したパチンコ店のように、父も定年という現実を受け入れ、新しい人生を歩んで欲しいと思う。そして私が人生に迷った時はまた、パチンコ台で肩を並べながら、人生の先輩として相談に乗ってほしい。

−終わり−

 私が京都で学生暮らしをしていた頃だから、四十年余りも前の話だが、当時は学園紛争の真っ只中であった。全共闘がいつ攻めてくるかわからないので、授業が行われない日が続き、私の欲求不満も最高潮に達していた。下宿へ帰っても、テレビ一つ無い部屋で本を読むか、ラジオを聞く位しかすることがない。その他は喫茶店で時間を潰していた。学校の帰りに必ず立ち寄る喫茶店の左右にパチンコ店があった。そこの従業員や経営者がよく喫茶店にやってきた。私は奥会津の出身で、村にはパチンコ店なんかなかったから遊び方など知らなかった。そんな田舎者の私に、喫茶店の左にある小さい方のパチンコ店のクギ師さんが、いろんな打ち方を教えてくれた。
昔は、親指一本でテンから落とす打ち方が基本だったが、いろんな打ち方を教えてくれるそのクギ師さんに、「そんなことまで教えていいんですか」と言うと、「なぁに、教えてもその裏をかくのが、本当のプロってもんよ」という答えが返ってきた。

私はそのクギ師さんの言ったことが本当かどうか、寺町今出川にあったその店ではなく、みんながよく行く千本中立売地区のパチンコ店で試してみた。山なり打ちや斜めブロッケ打ち、テン柱落とし打ちなど、教えられたことを自分なりに工夫してやってみた。そして、最初はなかなか良い結果は出なかったが、徐々に効果が出てきて、パチンコの面白さが分かってきた。修行の成果を見せたくて、そのクギ師さんのパチンコ店に戻って打ってみせた。確かに腕が上がったのか、二、三日は調子良く出た。しかし、その後はまた簡単には出なくなった。すると、クギ師さんが応用編を言って来る。また千本中立売地区で試して帰ってくる。そんなことが三か月ぐらい続いた。
いつの間にか私は、パチプロにでもなったような気持ちになっていた。そして誰もが一度は経験する、大負けをすることになる。

明日の食事代も無くなった私は、福島の実家へ電話して、電信為替で送金してもらった。親父の叔父さんがすぐ隣で郵便局長をしているから、金が無くなるといつも「参考書を買うから」といったウソで、何度も送金してもらったが、その時は、さすがの私も少し心苦しかった。そんな話をみんなが集まる喫茶店でしていると、クギ師さんとは違う、大きい方のパチンコ店の専務が突然、
「おい、そこの若いの、ちょっとここへ座れ! 座らんかい!」
ちょっと声を荒げて怒り気味の専務を見ながら、恐る恐る座って、
「何ですか、専務。私が何か悪いことでも言いましたでしょうか」と言うと、
「良いか、若いの。パチンコはあくまで遊びや。明日の生活費までスッカラカンになるような遊び方はするんじゃねぇ。親に仕送りしてもらって、そんなことするなら、うちのパチンコは打たんでいいぞ。いくら商売でも、そんな安い客はいらん!」

 よくよく考えたら、親の仕送りで生活している貧乏学生が、その金を使ってパチンコをするなど、もってのほかという言い分は当たっている。その後、専務に詫びを入れて、私はパチンコをしなかった。二か月も経った頃、私はいつものように喫茶店で文庫本を読んでいた。そこへ専務が入って来て、
「おお、若いの。最近は勉強一本か。たまには息抜きもせいや。三十八番打ってみろ、まだ金はあるやろ。ウソのサンパチ、わしに騙されたと思って打ってみろ」
専務の許しが出た私は、すぐに三十八番に走って行った。そしてその三十八番を終了した。専務の優しさが身に沁みた。それからも専務とクギ師さんに可愛がられたのか、ちょうど小遣いが無くなる頃に、ウソのサンパチ台を二人が教えてくれた。「京都の人はよそもんには冷たいでぇ」なんて聞いていたが、そんなことはないなぁと思った。

そして、その後も何度かパチンコに溺れかけたが、その時の二人の優しさを思い出して、自分を取り戻すことが出来た。
この台と勝負だとまで意気込んで、家まで金を取りに帰って終了したら、勝ち負けトントンだったりしたこと。四条河原町の有名パチンコ店で、私のパチンコを見ていた外国人が「ワンダフル! ワンダフル!」と私を絶賛したのに乗せられて、二台終了したこと。いろんなパチンコの思い出は、私の青春そのもののような気がする。
イタズラ好きなパチンコは、人と待ち合わせしていて、まだ早いからと、ちょっと入ったような時に良く出るもの。ただ最近、土日に孫の子守りを私たちにさせて、夫婦でパチンコに興じる息子に、私はあの専務の優しい言葉を忘れないで必ず言う。「パチンコは楽しく遊ぶ競技やで!」と……。

−終わり−


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