エッセーの部

 祖母は厳格な人でした。戦争で夫を失い、女手一つで 二人の男の子を育て、70歳目前まで現役で働き、贅沢をせず慎ましやかな生活を送っていた祖母。私はそんな祖 母を尊敬しながらも、少し煙たく感じていました。
家庭の事情で母が家を出た時から、祖母は仕事帰りに 買い物をし、必ず5時半には夕飯を作り、私の帰りを待ってくれるようになりました。高校生だったある日、いつ もの時間に帰宅すると、祖母が珍しく帰っていませんで した。暫く待っても戻って来ず、5時半を回り、心配になり探しに出ようとした瞬間、「ごめん、遅なってしもう て……」と、息を切らせながら祖母が帰ってきました。「もー! 心配したんやで!」と私が少し怒って聞くと、 祖母は「ごめんなぁ。実は……」と何か言いかけて口ごもりました。「なんなのよ! 心配してたんやで」「…… ごめんなぁ。あんたには言わんとこと思ってたんやけど…おばぁちゃん、パチンコ好きやねん。仕事帰りに少し だけ寄って、四時の電車に乗って帰ってたんやけど、今日は腕時計が止まっていて……お店の人に『いつもの時 間過ぎてるけど、大丈夫ですか』って言われて気が付いたんよ。なんか恥ずかしくて、今まで隠しててごめんね」と言われ驚きました。
パチンコ? 軍艦マーチガンガン、たばこプカプカのやつ? 休日こっそり出かけた親父が帰ってきて、バツ悪そうにチョコレートくれるやつ? 兄が先生に見つ かって停学になったやつ? 厳格な祖母がパチンコを打つことに驚きましたが、「そっか。でもパチンコ屋の店員さん親切やね。帰りの時間を心配してくれるなんて」と私が言うと、祖母はとても嬉しそうに、にっこり笑いました。

 それ以来祖母は、毎日夕食時にパチンコに行った話をしてくれるようになりました。今日は少し負けちゃったよ。今日は好きなのが空いてなかったから、打たずに帰ってきたよ。今日はいっぱい出て楽しかった。今日は少し玉が余ったから、隣の人にあげて帰ってきたよ……。パチンコの話をする祖母は、今までの厳しい祖母とは別人のように無邪気で、私は煙たかった祖母をとても身近に感じるようになりました。父も兄も帰りが遅く、祖母と二人の夕食時。寂しかった時間がパチンコのおかげで、二人きりの楽しい時間に変わりました。
数年が過ぎ、卒業後の就職が東京に決まり、新生活に胸を膨らませながらも、祖母と過ごす時間が残り少ないことを寂しく思っていたある日、不慮の事故で祖母は永遠に帰らなくなりました。父が泣きじゃくる私に「これでよかったんや。ばぁさんはお前が上京することを『寂しくてたまらんねん。喜ばなあかんのにねぇ……』って毎日言ってたし、苦しむことも無かったんだから……」と言い、私はたまらず、冷たくなった祖母にしがみ付きました。「あいちゃん……!」とっさに出た「あいちゃん」。祖母の名前。以前は煙たかった祖母を、まるで親友のように思っていたことに気付きました。祖母の死を機に、私は行くことも触ることも無く、祖母の思い出が詰まったパチンコが嫌いになりました。

その後数年間は、パチンコと聞くだけで気持ちが沈んでいましたが、時間が経つとともに悲しみも薄すれ、十数年経って帰郷する頃には、あまり意識しなくなっていました。故郷での暮らしに慣れ始めたある日、パチンコ店に好きなアニメのポスターが貼ってあるのが目に入りました。兄が以前パチンコを嫌う私に「最近はルパンの台も出たよ。昔とは違う」と言っていたことを思い出し、ぼんやり眺めていると、何故かすっとパチンコ店に吸い込まれるように足が進み、気が付くとその台に座っていました。

 お店の中はイメージ通り。でも、何をどうして良いのかさっぱり解らない……。初心者であることが何故か恥ずかしく、必死に周りを観察して何とかカードを購入。どうにか一人で打ち始めました。やはりビギナーズラックなのでしょうか。1枚購入したカードが無くならない内に当たりを引きました。隣の小母さんが何やら親しげに話し掛けてくれますが、周りの音が大きくて良く聞き取れないまま相槌を打っていると、突然横からおじいさんが、初めて出した玉の入った箱に手を掛けました。
「私のです! 取らないで……」と必死に抗議すると、おじいさんと隣の小母さんは大笑い。「なんやあんた。素人さんかいな。確変やし、もう一回出るから、下に置くんやで」と教えてくれ、おじいさんが店員さんであることが分かりました。
お二人の笑い声に緊張の糸が切れ、同時に祖母のことを鮮明に思い出し、突然涙が堰を切るように溢れ出しました。30歳近い女が人前で大泣き……。驚いたお二人が私を休憩所に連れて行き、泣き出した理由を親身に聞いてくださいました。祖母の話をすると、「あんた、あいさんの孫か?」とおじいさんが驚いたように話し出しました。祖母の働いていた町のパチンコ屋にいたこと、二十年来の顔見知りであったこと、ご飯の買い物をして来るようになり、少し心配したこと。そしてあの日、いつもの時間に帰らないのが心配で、お節介かと思いながら声を掛けたら、とても感謝されたこと。間違いなく、祖母の話。突然来なくなり心配してくださっていました。祖母が亡くなったことを話すと、おじいさんも小母さんも泣き出し、それにつられ、また私も号泣。

 「こんな偶然あるんやなぁ。いやきっと、あいさんが会わせてくれたんやろなぁ」
おじいさんの言葉に小母さんも私も、ただ頷くだけでした。
現在私はパチンコを打つ人と結婚し、帰って来た母や離れて暮らす兄弟と、休みが合えば家族揃って打ちに行くことを楽しみにしています。時代は流れ、パチンコに係わる暗い話を耳にすることもありますが、身をもって体験した私は思います。悪い一面もあるのかもしれない。でも、パチンコのお陰で家族や他人との絆が深まることも必ずあると。これからも息抜きの場として、そして、人と人とが繋がる身近なコミュニティーとして、存在してくれることを心より願っています。

−終わり−

店内に落ちていた1粒のパチンコ玉。この小さな銀玉が、パチンコを愛するようになったきっかけだ。
私が幼稚園の頃、両親によくパチンコ店に連れて行ってもらっていた。まだ入店の規制が甘かった頃だ。あの頃のパチンコ店は、いつも誰かしら同じくらいの子がいたりして、行くたびに友達が増えた。店員さんも笑顔で景品のおもちゃやジュース、お菓子などをよくサービスしてくれた、なごやかな時代。
そんなある日、何気なく拾った1粒のパチンコ玉。こそっと母親の隣の台で打ってみた。玉は釘にカツン、カツンと弾かれ、ポロンとおヘソに吸い込まれていった。図柄がくるくると動きだす。それに気づいた母親は注意をした。しかし、そんなことなんて耳に入っていない、おかまいなしだ。固唾をのんで見守ると、
「リーチ!」
台が私に話しかけてきた。私は「当たったら怒られるかも」という感情と「当たって欲しいなあ」という、相反する感情に挟まれていた。パチンコ台も気持ちを察してか、なかなか止まってくれない。この時間はたった30 秒ぐらいの短い出来事なのに、時間が止まっているように感じた。そして、いよいよ真ん中の図柄が止まる。心臓がドクンドクンと脈を打つ。
「シュンシュンシュン……ピタッ!」
3つ並んだ数字が私の目に飛び込んできた。当たったのだ。その瞬間母親が、
「何やってんのー!」
怒られた。私は何が何だか分からずに、母親に助けを求めた。母親は「もうっ」と笑いながら、台を代わってくれた。みるみる玉が出てきて、1粒のパチンコ玉が箱一杯になった。

 両親の遊技が終わって、景品コーナーで交換するとき、「大ちゃんが当ててくれたから、好きなのを選んでいいよ」と父親が耳元でこそっと言ってくれた。その時はもう嬉しくて嬉しくて。ゲーム好きな私は、好きなゲームソフトを選んで、家に帰って遊んだ。「パチンコさん、ありがとう」、パチンコと友達になった瞬間だった。
小学生以降になってからは、両親の買い物の際中など、デパートのゲームセンターにあるパチンコでよく遊んでいた。この時代には私の知っているアニメやゲームが、少しではあるがパチンコ化されているので、パチンコがますます好きになった。
大学に入学して、初めて両親に「打ちに行かない?」と誘われた。やっと打てる年齢になったので、わくわくしながら一緒に行ってみた。しかし、そこには昔のパチンコ屋の面影はなかった。店内には「車内子供放置禁止!」や「ゴト禁止!」などの注意書きのポスターばかり。その時初めてパチンコってこんなにイメージが悪いのかと気付かされた。
あんなに楽しいのに。
あんなに嬉しいのに。
あんなに喜べるのに。
友人と喧嘩した時、いつもやつあたりで喧嘩相手になってくれているのはパチンコだし、失敗して落ち込んでいた時、いつも慰めてくれるのはパチンコだった。パチンコをしている時だけ、どんなにいらいらしていようが、落ち込んでいようが、心から楽しめた。そんなパチンコが悪者になっているのは許せない。だから、周りにパチンコを嫌っている友人がいたら、私は伝える。

 「悪いのはパチンコじゃない! お金や家族など、自分の事をしっかり管理できない人自身が悪いだけなんだ!」 と。口で言ってもわからないと思うので、ある友人を直接パチンコ店に連れて行った。今では「1パチ」という誰でも遊びやすい制度があるため、そこに座って1000円だけでもやらせてみる。
「カツン、カツン、スポン」
まるで幼稚園の頃の私のように玉に目を奪われている。そして、液晶をじっと見つめ、役物がガシャンガシャン動くと、「どうなるの? どうなるの?」とわくわくそわそわ。そして、をまだやったことない人、嫌っている人に伝えたい。
「リーチ!」
おおっ、と唸る友人。揃え揃えと念じている。さっきまで悪いイメージを持っていたのが嘘のようだ。台も期待に応えるかのようにガシャンガシャン鳴いている。キラキラ綺麗な色の光で友人を照らしている。そして、
「ドカーン! 大当たり! おめでとう!」
台が友人を歓迎してくれた。2人とも周りを気にせず大喜び。ほら、パチンコって楽しいでしょ? こんな私も、もうすぐパチンコ業界で働く社会人。なので、パチンコをまだやったことない人、嫌っている人に伝えたい。
「騙されたと思って、一回やってみてください。ゲームセンターでも、1パチでも、今はあまりお金を使わないでパチンコが楽しめる世の中。打てば楽しさがわかります」

 1粒のパチンコ玉が私にパチンコの楽しさを教えてくれて、そんな私が友人に楽しさを教えた。そして、その友人も誰かに教え、その誰かも……。純粋にパチンコを愛する人で埋め尽くされる、そんな未来を夢見ながら社会に飛び込む私。

−終わり−

 私がパチンコ業界で仕事を始めて、今年の春で四年目を迎えることになります。最初の勤務地は、それまで慣れ親しんだ実家の土地を離れ、単身広島県廿日市市という街での勤務となりました。実家も同じ広島県内ではありますが、私はあまり活動的な方ではなかったため、ほかの地域のことをよくは知らず、ただ何となく場所は知っているぐらいでした。さらに初めての一人暮らし。憧れこそありましたが、知らない土地で知らない人達に囲まれて生活するといった状況は、やはり不安で仕方がありませんでした。
そんな時期から月日は経ち、現在も最初の勤務地で仕事をしています。ホールでの業務にも慣れ、廿日市という街で落ちついて生活できるようになりました。緊張や不安でいっぱいだったあの頃を思い出すと、なんだか恥ずかしくなります。今ではこのホールで働けて、この街で勤務できて良かったなと思います。もしかすると三、四年も同じ場所で仕事をすれば、もっと慣れてきて愛着が湧くのだと思います。しかし、ただ単純にそれだけで良かったと思った訳ではありません。そう思えるエピソードがたくさんあったからこそ感じられるのだと思います。
私たちのホールでは店休日などを利用し、年に数回、店舗周辺の清掃活動を行なっています。少し歩いてみると、本当にたくさんゴミが落ちていてとても驚きます。タバコの吸殻や空き缶などは序の口で、やり終わった花火の燃えカスやタイヤのホイールまで、様々なものが捨てられていました。こんなものが周りにあっては、お店のイメージがあまり良くありません。前回の清掃はちょうど真夏に行なったため、溶けるような暑さの中、汗をかき、ヘトヘトになりながらゴミ拾いをやったことを覚えています。

大変ではありましたが、スタッフと共に全員が一生懸命やったので、ゴミ袋いっぱいのゴミを回収することができました。一人ひとりのお店への思いが大量のゴミ袋の分だけ感じられました。さらに嬉しいことに、ホールスタッフだと気づいてくださった近隣の方が「暑いのに大変じゃのう。ありがとう」と声をかけてくださる場面がありました。自分たちの取り組みが少しでも地域に貢献できたのではと感じられた瞬間でした。

もう一つ印象に残ったエピソードがあります。自店では空き缶のプルタブやペットボトルのキャップを回収し、車椅子やワクチンに交換するエコ活動に力を入れて取組んでいます。ホール内の専用ボックスには、少しずつではありますが確実に、プルタブやキャップが増えていっています。そんな中、ある時ひとりのお客様からビニール袋をいただいたことがありました。中身は何だろうと思い、袋の中を確認してみると、大量のプルタブが入っていました。「このお店が集めているっていうのを聞いたから。毎日飲んでいるから、こんなに集まるの」と笑いながらお話をしてくださいました。このような話が、一回だけ、一人のお客様からだけではなく、何度もたくさんのお客様からありました。そのおかげもあり、去年の秋、車椅子の寄贈をすることができました。その時、地域の方々から本当に協力と応援をしてもらっている店舗なのだと、改めて実感しました。

パチンコ・スロット営業だけではなく、色々な取り組みを通じて、地域にも愛されるお店づくりを目指しているホールにいることで、人との繋がりの大事さを学ぶことができました。お客様からいただく感謝や応援が、スタッフとして働く中で本当に嬉しくて、人との繋がりの温かさを感じられました。不安で仕方なかった自分が、最初に出会った場所がここで良かった。自分が変化したように、学んだことや感じたことを活かし、また別の場所に行っても同じようにやっていきたいと思います。

−終わり−

 朝ドラ「カーネーション」を1週間分まとめて見ながらごろごろしていたら、掃除の邪魔になったのだろう、女房が「五千円あげるから、パチンコでもやりに行っといで」と言い出した。これは珍しい。よほど見るに見兼ねたのだろう。まさに、渡りに舟である。しかし調子に乗って、「もう一声」と差し出す手はピシャリと叩かれた。

「ごせんえん有難うございます」
選挙応援のウグイス嬢を真似て言ったら、けらけら笑っていた。
片付けの邪魔にはなる、匂いはする、返事がわりに放屁はする、じきに腹が減ったと言い出す、女房にしてみればいっそ亭主に休みなど無いほうがいいのである。用事を作って、さっさと家を出たほうがいい。お互い「アラシ」(ジャニーズのアイドルグループではない。アラウンドシックスティー)の歳となり、その辺は、あうんの呼吸というやつである。

 趣味がないことはない。最近、川柳に凝っている。歳のせいで、朝の三時、四時になると勝手に目が覚めてしまい、それからしばらく、ない頭をしぼって川柳を考え、展転反側する癖がついた。
『道草も食えなくさせた放射能』
これが今朝の七転八倒の成果で、もちろん福島原発周辺の惨状をイメージしたものだ。人の子のみならず、牛や馬も道草どころではなくなっている。こちらは自然豊かな信州の育ちなので、子供の頃は学校からの帰りによく道草を食った。楽しい思い出がいっぱいある。

その癖が大人になってからも抜けず、仕事帰りには飲み屋に、パチンコにと、途中でワンバウンドを繰り返していた。仕事もよくやったつもりだが、その分遊びも大いにやった。

人生、仕事と眠り、そして遊びも、それぞれ均等に三分の一ずつという信条、その結果が今の貧乏で、小遣いは女房の情けにすがって捻出してもらっているありさまだが。
行きつけは車でほんの五分の所にあるパチンコ店だ。しかし何しろゆっくりでいいから、歩いて行くことにする。下手にトンボ返りでもしたら、新婚当時ならいざ知らず、今は露骨に嫌な顔をされるに決まっている。
春は名のみの風の寒さに、肩をすくめながら歩く。最近つくづく考えるのは、もう五十年もすれば日本の人口は八千万に減り、しかもそのうち三千万は年寄りになるという。そこでもし、業界のお偉方に会う機会でもあれば、パチンコにもスローパチンコというジャンルがあったら有難いと提案したいと思うのだが、どうだろう。何しろ、国が破産するのではないかと言われるようなお先真っ暗の時代、不景気続きでパチンコ業界に落とされる金も右肩下がりになるのは必至。加えて若者は、

『目の前に相手がいてもメール打ち』
というように、直接相手と話しをするのではなく、携帯に目を落としてメールで会話するというほどの携帯依存。そして、パチンコよりも多種多彩なゲームが氾濫する世の中だ。せめて高齢者の何割かを対象に、玉が弾かれるのも減っていくのも、今よりかなりゆっくりのスローパチンコ導入を、業界は真剣に検討すべき時代に来ていると思う、今日この頃である。何か新聞の投書欄みたいになってしまったが、本音は自分のような、家に転がっていても邪魔なだけのジイサンが、勝って帰らないでいい、ただ寄り付ける場所が欲しいというところである。

さて、今日は久し振りに土産を持って帰れた。ちょっと出たところでそれ以上欲張らず、チョコレートなどの菓子に替えた。
『着ぶくれねそっと鏡に言ってみる』

 と、この頃急激に肉がついて、身長とウェストが同じくらいになってきた女房が、「あら嫌だ。またデブの素を持ってきて」と言いつつも、顔は嬉しそうにほころぶことだろう。今日も好い日となった。

その、カウンターでチョコレートに替えてもらう際に、顔馴染みになった若い女性スタッフを見て、ふと思ったのだが、この頃ちょっと綺麗になっている。綺麗というより、大人の顔になってきたというべきか。言葉も以前よりはっきりと、そして優しく、目もしっかりしてきたような気がする。
どうもそれは、東北へ震災のボランティアに出かけた頃からのように思えるのだ。この店のスタッフは震災の後、チームを組んで瓦礫撤去の手伝いに出かけていたのである。去年の夏、折り込み広告の裏に、被災地で奮闘する彼等の姿が紹介されていた。当地での活動が彼女らを鍛えて、綺麗にしたのだろう。大した若者たちである。

 その写真を見てから、ここでならちょっと負けてもいいような気持ちで通っているのである。周り回って、少しは役に立っている気にさせられる。復興へ涙をふく暇(ふくしま)もなく、頑張る被災地の人々のために。

−終わり−

 生まれ育った町は、九州の小さな港町だ。これといって自慢できるものもないが、有明海沿いを走るローカル電車は、鉄道マニアにはなかなかの人気のようだ。私が生まれる前は、交通の要所として栄えていた時期もあったのだそうだ。確かにリゾートホテルや映画館、ボウリング場などが廃墟として残っている。
そんな町に一軒だけパチンコ店があった。きらびやかな店構え、広い駐車場、賑やかな店内。子供達にとっては憧れの場所である。不思議なことに私の田舎では、パチンコ店に対して特別な抵抗感はなかった。治安が悪いとか、近寄りがたいイメージはなく、いい意味で町に馴染んでいた。唯一の娯楽施設だったせいだろうか。

 小学生の時は、ここの駐車場でみんなと遊んだ。駐車場の片隅にあった資材置き場は子供達の絶好の遊び場で、材木に乗ったり、水たまりで泳いだり、今では想像も出来ないほど泥だらけになって遊んだものだ。そうやって遊んでいる間にも、近所のおじさんやおばさんが楽しそうにパチンコ店に出入りしていた。子供も大人もお互いに声をかけ合い、パチンコ店はまさに町の社交場だった。
当然ながら待ち合わせの場所として使われることもよくあった。パチンコ店の外には公衆電話と自動販売機があったので、待ち合わせには最適なのだ。友人と遊ぶとき、お稽古事に通うとき、待ち合わせの場所は決まってパチンコ店の前だった。父のパチンコが終わるのを、外で待っていたこともある。私はいつも外のベンチで、ココアを飲みながら待っていた。

 ところが、である。兄や姉は中に入って父の側で待っていたということが、後になって判明した。私にとっては憧れの場所であり、特別な空間だったパチンコ店に、兄や姉は小学生の頃すでに入店デビューしていたのだ。私は「私だけ父と一緒にパチンコ店に行ったことがない」と拗ね、後々まで根に持つことになる。どうでもいいことなので、今思い返すとおかしいのだが、当時の私は納得がいかなかったのだ。
そんな町で中学生までを過ごした私が、高校で初めて町の外に出た。高校1年の時だったろうか。保護者会の役員を務めることになった父が自己紹介文に「趣味・パチンコ少々」と書いたのだ。私は何とも思わなかったのだが、クラスメイトの間でなぜだかウケた。父は瞬く間に有名人となり、パチプロではないかという噂まで一人歩きした。父にその噂を話すと、非常に嬉しそうに豪快に笑っていた。

 それから10年が過ぎ、県外に嫁いだ私だが、夫の両親 は全くパチンコとは無縁の人生を送ってきた人達だった。「実家のお父様は、趣味はおありなの?」と聞かれたとき、「パチンコです」と答えたところ、「ご冗談を」と言って笑われた。この話もまた父は大笑いしながら聞いていた。
父は九州男児を絵に描いたような豪快な男なのだ。小さな事にはこだわらない。思い出す故郷の父はいつも冗談を言って私達を笑わせ、時には厳しく叱りとばした。時間が出来るとこっそりと、でもとても嬉しそうにパチンコに出掛けるのだ。家族もそれを咎める者など1人もいなかった。
とかくパチンコというと、暗いイメージが付きまとい、賭け事を趣味としているお父さんなど、家族はさぞかし大変だろうと思いがちだが、我が家に限っては全くそのようなことはなかった。

あの町で、あの家族のもとで育った私にとっては、パチンコは今でもちょっと覗いてみたくなる憧れの空間なのだ。大人になった今ではどこのパチンコ店にだって自由に入れる。これからも、ちょっといけないことをしているようなドキドキ感を忘れずに色んなパチンコ店を探検してみたいと思う。
しかしながら、私にはいまだに叶えられてない願望が一つだけある。それは「父と一緒にパチンコ店に行く」ということだ。兄や姉は一緒に連れて行ってもらっているのに、私だけはない。これは何としても達成しなくてはならない。最近、膝を痛め、歩くのが辛いという父。あのパチンコ店まで無事に辿り着いているのだろうか。父に連れて行ってもらうのではなく、私が連れて行ってあげようか。そんなことを密かに計画していたりするのだった。

−終わり−

 二十年ほど昔の話だ。大学卒業を目の前に、私は留年することが決まった。当然のごとく親は激怒し、一年間の学費は自分で賄うことになった。当時、深夜のコンビニでアルバイトをしていたものの、学費を賄うとなると、それでは不足することが明らかだったので、私は新たなバイトを探した。そして、後輩がバイトをしていた千葉駅前のパチスロ専門店を紹介して貰い、働き出す事になった。
当時から私はパチンコ、パチスロが大好きで、自分が打てない不満は多少あるものの、とても楽しみながら仕事をしていた。その店では、昼の休憩の直前に必ず、店の前を掃除することになっていた。大きな交差点に面した店だったので、信号待ちの歩行者の投げ捨てたタバコが、そこら中に散らばっていた。

 その日はとても寒く、外回りの掃除はとても辛かった。理由はわからないが、この店では上着を着用して掃除をすることは許して貰えなかったのだ。さっさと終わらせて暖かいホールに戻ろうと、素早くほうきを動かす私の背後から声をかける人物がいた。
「あの、すいません」
女性の声に私が振り向くと、かすりのもんぺを着た小さなお婆さんがたたずんでいた。多分、行商の人だろう。頭には姉さんかぶりと呼ばれる形で、手ぬぐいが巻かれている。
「これで遊べますか?」
そう言うおばあさんの手には、二枚の五百円玉が乗っていた。私は言葉に詰まった。千円あればパチスロはできる。しかし、千円では最低限のコインしか借りることができない。自分の経験を思い起こしても、千円で当たりを引くことは滅多にない。店員として私は、この女性を店に招き入れるのが正しいことなのか悩んだ。

 二枚の五百円玉でパチスロを打てるかと私に聞くくらいだから、このお婆さんはパチスロをしたことが無いのだろう。そんな人が、千円パチスロを打って、ほとんど何も無いまま終えてしまったら、きっと残念な気持ちになるのでは無いだろうか。パチスロの楽しさを知る前に、もう二度とパチスロを打つことが無くなってしまうのでは無いだろうかと考えた。
不思議そうに私を見るお婆さんを待たせ、少し考えた末に私は、この店でパチスロを打つのをやめるように話すことにした。私はできるだけ丁寧に、千円では当たりを引くことが難しいこと、当たりを引けなかった場合には10分も遊ぶことができないことを説明し、もし時間が余っているのなら、ゲームセンターにあるパチンコをするのが一番良いと思うと勧めた。それを聞いたお婆さんは、私に何度も頭を下げながら、ゲームセンターの方へ消えていった。

 私のとった行動は正しかったのだろうか。
おばあさんを見送った直後から、私の頭の中では疑問符が乱れ飛ぶ。午後の仕事の最中も、そのことばかり考えていた。多分あのお婆さんは、この店でパチスロを打ってみたかったのだ。千葉の中心地で目立つこの店に入ってみたかったのだ。そう思うと、たとえ千円でも、たとえ一度も当たりを引けなくても、打たせてあげるべきだったのではないかと考えた。もしそれで、つまらない思いをしても、あのお婆さんはこの店でパチスロを打てたことで満足したかもしれないのだ。
しかし一方で、こんなに楽しいパチスロを理解する間も無いままつまらないと感じ、二度と足を運ばなくなってしまうのが残念だとの思いも、私の中でくすぶっていた。

多分、正解は無いような気がする。それでも、あのお婆さんがその後どうしたのか、私の言葉をどう受け止めたのか、その思いは私の心のどこかに引っかかったままだった……。
つい先日のことだ。ネットで行商列車の記事を見かけた。そこには、千葉の京成電鉄では今でも平日の朝一本だけ、しかも一両ではあるが、行商専用の車両が残っていると書かれていた。そして、行商に向かう女性達の、あの頃と変わらない姿が掲載されていた。記事の女性は八十歳を越えていた。もしかすると、あの時のお婆さんは今でも行商を続けているかもしれない。あれから二十年、もう顔を思い出すことはできないが、深いしわの刻まれた手のひらに乗った二枚の五百円玉が、今でも脳裏に浮かびあがる。
パチンコもパチスロも、今では随分変わった。当時に比べてかなり低いレートで遊べる店が増え、少ない投資でパチンコやパチスロを楽しむ事ができるようになった。

そのお陰もあって、あの頃に比べパチンコやパチスロを気軽に楽しむ人が確実に増えている。きっと今ならば、私は迷ったりしなかっただろう。だから、もしあのお婆さんが、未だにパチスロを打ったことが無ければ、是非とも彼女にパチスロへの招待状を送りたい。
「少しのお金でも大丈夫! パチスロは楽しいですよ。7が三つ揃ったときの興奮を、是非味わってください!」

−終わり−

 私は、パチンコ屋さんの駐車場警備員をやっています。
ある夏の日でした。立体駐車場2階の、屋根がない駐車場での出来事です。我々警備員は、一台一台、車を見ていきます。ロックはしてあるのか、窓はちゃんとしまっているのか、そして、ある一台の車で違和感を覚えました。その違和感が何なのか気になったので、注意深く、車の中を見てみると……。エンジンは掛かって無いのに、ナビの画面では、テレビアニメが流れているのです。フィルムが窓に張ってあり、車内が見にくいのですが、注意深く見てみると、子供が後部座席下に隠れているのです。私が窓ガラスを叩きます。子供が「あちゃー、見つかった~」みたいな顔で扉を開けて顔を出します。私は笑顔で声をかけます。
「こんにちは~。お父さん? お母さん? おじいちゃん? おばあちゃんは?」
子供は答えます。

 「すいません、お母さんが直ぐに戻って来ると思います」
私は答えます。
「謝らなくて良いよ~。具合悪くないね? 暑いから窓開けてて良いんだよ。少しでも具合悪いなら日陰に行こうか? お母さんが来るまで、おじちゃんも車の近くにいるからね~」
子供は言います。
「はい、すいません」
私は哀しくなるんです、安易に想像出来るんです。お母さんに強い口調で言われたのでしょう、ちょっと行ってくる、ここのパチンコ屋さんは駐車場警備員がいるから、絶対に見つかってはだめよ、って子供に言ったのでしょう。
腹が立つんです。なんにも悪く無いのに、子供は謝るんです。
お願いします、子供に謝らせないでください。
パチンコは楽しい大人の遊びです。

 貴方は家で何と呼ばれていますか? お母さんですか? お父さんですか? おじいちゃんですか? おばあちゃんですか? 子供は謝るんです、謝らせないでください。お願いします。
待ってるんです、暑い暑い車の中で…真っ赤なホッぺで……。
私は、未だに年に何回か、子供放置の車をパチンコ屋さんの駐車場で見つけます。ニュースなどで、年に何回かパチンコ屋さんの駐車場の悲しいニュースを見かけます。いつか、こんな悲しい出来事が無くなると信じて、今日も駐車場を警備しています。
私はパチンコ屋さんの駐車場で警備員をやっています……。

−終わり−

 「貴子さんは、本当に優等生ね」
これが、文子先生の口グセだ。小学校で担任をしていただいてから20年、会うたびニコニコ嬉しそうに言われると、私もまんざらではない。学級委員長に児童会長、長の付くものは何でもやった、あの頃に戻ったようでくすぐったい。「そんなことないですよぅ」と頭をかきながら照れる私。ずっと変わらない、先生と私のやり取りだった。
ある日、久しぶりにお会いした先生は、珍しく旦那さんと一緒に来たのだと教えてくれた。田舎暮らしだと市街地に出てくることもそうないから、と。しかし待ち合わせの喫茶店には姿が見えない。
「せっかくだからちょっと海に行ってくる、って」
「海、ですか?」
私は首をひねった。この街から海までは遠く、ちょっとそこまで、という距離ではない。

 「海といっても、すぐ近くなの。座ってぐるぐる回る魚を見ているだけなんだけどね」
先生はいたずらっ子のような顔で笑った。まるで謎かけだ。
海、回る、魚、すぐ近く?
私は頭にピン、と見慣れたものが浮かんで、そのまま思わず口に出してしまった。
「先生、それってパチンコですか」
瞬間、先生の目が真ん丸く見開かれた。
「貴子さん、どうして分かったの? もしかして……」
しまった、と肩をすくめる私。その手をすくいとられたかと思うと、いきなり強く握りしめられた。なぜだかキラキラ輝いた瞳が、間近に迫っていた。
「あ、あの、先生?」
先生は私の耳元に口を寄せると、ふふふっと内緒話をするように囁いた。

 「あのね、私も大好きなの。パチンコ」
「ええええええっ?」
文子先生がパチンコ? 一瞬、私はめまいを覚えた。いつも外で元気に走り回っていたような先生が、あの騒音の中で台に向かっている姿が、すぐには想像できなかったのだ。
旦那さんの影響で始めたパチンコ。海物語が大好きで、初めて大当たりした時のこと。パチンコで仲良くなった近所の人たち。週末は旦那さんと2人で朝から出かけること。生き生きと楽しそうに話す姿は、これまで知っていた先生とはまるで別人だった。いつも学校や生徒のことばかりで、自分のことはほとんど話さなかった先生が息もつかずに喋り続けるのを見ていると、本当にパチンコが好きなんだなあ、と私も嬉しくなった。
ただ、旦那さんの話になると、ほんの少しだけ先生の顔が曇った。

 「うちの人はね、昔っから好きで……負けても勝つまで帰らないのよね」
ぎくり。
「この台、って決めたら、テコでも動かないのよ。私はデータ重視だから、グラフ見て出なさそうな時はすぐにやめちゃうんだけど……出ない台は出ないのにねぇ」
ぎくぎくっ。
「私はいつもお札を1枚だけ握って行くの。少しのお金で勝つから嬉しいのよ、って言って聞かせるんだけど、すぐにお小遣い前借りしてくるから困っちゃう」
ぎくぎく、ぎくりんちょ。
「貴子さんは、そんなことないわよねぇ」
「え、ええ、まあ……」
答えた私の顔は、きっと引きつっていたに違いない。旦那様はまるで私のようです、とは、口が裂けても言えなかった。

 いつからこうなったのだろう。朝から晩まで同じ台に座ってつぎ込むうちに、友人たちとの玉やお金の貸し借りは当たり前になってしまっていた。1回の金額も、始めた頃よりずっと多い。勝てば返ってくる、なんて自分を誤魔化しながら打ち続ける、とても優等生とはいえない日々。先生の笑顔を見ながら、ふと思った。
パチンコって楽しい! そう思って店を出た日が、最近あったっけ?
「そのうち、近くの海でバッタリ、なんてこともあるかもしれないわねえ」
別れ際そう言って、ころころと笑った先生に「ええ、ぜひ」と答えて手を振った。真っ直ぐな背中を見送って、私も思い切り背筋を伸ばした。
さて、と。
いつどこの海で会っても胸を張れるように、先生を見習って、私もまたパチンコを楽しめるようにならなくちゃ。

 そして言ってもらうのだ。
「貴子さんは、パチンコでも優等生ね」
私は頭をかきながら、笑顔で返そう。
「文子先生。私が優等生なのは、昔も今も、先生のおかげなんですよ」と。

−終わり−

 もっと多くの人にパチンコ・スロットの楽しさを知ってもらいたい! そう願う私が現在課題として考えていることは、「ユニバーサルデザイン化」が、この業界にはまだまだ定着していないという点である。
近年、少子高齢化が進む中、ホール内を見渡せば、細い通路にびっしりと積み上げられた玉箱と玉が所狭ましと並べられ、座席の背もたれにぶつかりながら進まなければならない状況、別階には階段を利用しなければならないホールもある。トイレに関しては各個室すべてに、手すりや非常ボタンなどを付けている店舗は見掛けたことがない。
大抵どのホールにも、車イスを利用されているお客様が来店しているが、一番端の椅子の、取り外しが可能な台を遊技していることがほとんどで、決してその端の台を遊技したいのではなく、その台しか利用出来ないのだということをもっと真剣に受け止め、改善すべきだと思う。

 自動販売機ひとつ取り上げてみても、問題はすぐに見つかる。私がホール従業員として働いていた頃、営業終了後に店内の清掃をしていると、自動販売機の下に、二日に一度の頻度で硬貨が落ちていた。これも、うっかりお客様が落としたのではなく、自動販売機の硬貨投入口が狭く、使いづらかったのかもしれない。最近では広い受け皿のある硬貨投入口、選択ボタン、取り出し口が中間部分にまとめられ、誰にとっても利用しやすい形状の自動販売機を設置している大手スーパーなどもある。これらは積極的にホールに取り入れるべきだし、AEDが設置されているホールも見たことが無い。

 パチンコ業界が、世間一般にまだまだ誤解や疑いといった印象を与えてしまっているのであれば、他のどのサービス業よりも先に、ユニバーサルデザイン、つまり、どんな人でも公平に使えること、使い方が簡単ですぐに分かること、必要な情報がすぐに分かること、うっかりミスが危険つながらないこと、身体への負担がかかりづらいこと、台に接近する場合や利用するための十分な広さを確保することなどが常に守られているか考え、この先はもとより、多くのお客様に愛され、必要である業界と感じてもらえるよう、創意工夫が要求されているのだと私は感じる。

 私は、この業界の目線で物事を考えてしまいがちだが、一パチンコユーザーとして、お客様の立場に立ち、求められているホール作りをしていくことが私たちの使命であり、より多くのパチンコ・スロットファンを増やすきっかけになると信じている。全世代に愛されるパチンコ業界を目指し、特にご年配のお客様に、使いやすくて分かりやすいホールを常に考え提供していくことで、皆に愛されるパチンコホールになると考える。

−終わり−

 私の勤める「まるみつ東バイパス店」は、熊本市にある一円・二円パチンコと、十円スロット、全席『禁煙』のお店です。綺麗な空気と居心地の良さからか、お年寄りから、若い女性に妊婦さん、大学生の方も大勢来店されます。
ホール内には昼間、光がよく入り、休憩所では、うたた寝の光景もよく見られます。食堂はないのですが、景品にお弁当やインスタント食品があるので、晴れた日は入口にあるテラスで食事をされるお客様もいらっしゃいます。喫煙所も設置していて、その利用率は高く、タバコを吸うお客様も来店されるのが、本当に嬉しいです。
そんな当ホールは、誕生してまだ一年ちょっと。オープン当初はお客様から、「お帰り、まるみつ!」とよく言われました。その理由は、以前も同じ場所に『まるみつ』があり、しばらくお休みをしていて、新しく生まれ変わったからです。

 私自身、以前のホールには思い出があります。大学生になって、初めて熊本市内に出てきた時、初めてパチンコを打ったお店なのです。すぐ近所に住んでいました。その時は、もちろんこのお店に勤めることになるとは想像もしていませんでしたし、就職してからも同じでした。
それから約二十年。当時、宮崎県のホールにいた私に、「大森さん、東バイパス店に行ってください」との言葉。一瞬ポカンとなり、ああ冗談かと笑っていたら、「本当です、復活です!」との真剣な答え。そうして妻と大慌てで熊本に帰って来ました。妻は熊本出身なので大喜び。私も気持ちは十八歳の頃に戻り、暮らしていた街、初めて遊技したパチンコ店がどう変わったか、楽しみと不安で新しい職場にやってきました。
そして本当に驚きました! ほとんどが当事のままだったのです!

 ホールの外観はそのまま。そして国道沿いの風景、裏手にある八百屋さん、学生時代に通った定食屋さんに洋食屋さん、全てがありました。あまりのことに「変わったのは自分だけか?」と浦島太郎の気分で、恐る恐る昔住んでいたところに行くと、そこは住宅街になっていました。ホッとしたような、残念のようなそんな気持ちで、よく見るとマンションや大手チェーンのスーパー、ファミリーレストランに居酒屋などが出来ていて、さらに住みやすくなった「街」がそこにありました。
それからの私は今後の生活に大きな期待を抱きながら、ホール誕生までの下準備にいそしんでいました。オープンまでの期間、ご近所の方々が「まだね?」「楽しみにしとるよ」と声をかけてくださり、その歓迎の雰囲気が全員の励みになりました。

 そして待望のオープン! 多くのお客様が来店されました! 喜びの顔、喜びの声!「お帰り」「禁煙最高だね!」「やっぱりこの場所には、まるみつバイ」。そしてその日から一日も欠かさずいらしてくださるお客様もいます。
あるご老人は、昼間ホール内を杖をついてゆっくりと歩き回り、玉やコインを拾ってはニッコリと笑って差し出してくれます。そして前述した日だまりでのんびりと休まれていくのです。
「おじいちゃんに負けるな、みんな玉拾え」
全員で言い合うのですが、おじいちゃんも玉を拾うまで歩き続けるので、一切玉が落ちてないのもどうかと……今の悩みの種です(笑)。おじいちゃんに話しを聴くと、奥様を亡くされ、今は独り暮らし。寂しくなって来店されるとのこと。「ああ、自分達の職場は遊技場から『心の拠り所』になった」と、思わずジーンときた、自身の仕事に誇りを持った瞬間でした。

 そんな私達まるみつは全店、感謝の想いを込めて、毎月9の日に地域清掃を実施しています。この地に帰ってきた当店は、特にその想いが強く、近隣住宅街など念入りに清掃しています。私達はホール以外で自分達がすごす場所(自分達の休憩所や食堂、トイレなど)を、「バックヤード」と呼んでいます。そして、まずはバックヤードを綺麗にすることを心がけています。
「ここを綺麗にしないで、どうやってホールを綺麗にするんだ!」
そんな気持ちです。
昨年は県外の系列店数店も集まって、熊本城を清掃しました。
私達の合言葉は「熊本市が私達のバックヤード!」お世話になっている地域、店舗全ての場所を綺麗にしたい、「心の拠り所」であるこの場所を守っていきたい、いつまでも続けていきたい、それが今の私の願いです。

−終わり−

 夏のうだるような暑さの中、専門学校の夏休みのある日、父が突然「行くぞ!」と言って来た。父の思い付きはいつものことだが、その日の父はいつもより少し張り切っているように見えた。私は「またか……」と心の中で呟きながら、父の思いつきの行動に付き合うことにした。
父とは大きくなってからというもの、お互い気恥かしさもあり会話という会話もなく、この、たまにある父の「思いつき」に付き合う時に一言、二言話す程度だった。
どこに行くかもわからないまま、支度をし、家を出て父の後をついていく。照りつける太陽とアスファルト、15分ほど歩いてそこに着く頃には汗だくだった。着いたその場所は見慣れた一軒のパチンコ店だった。普段は、通学する時に毎日のように通り過ぎるのだが、中に入るのは初めてだった。

 私は少しドキドキしながら初めてのお店に入ると、先ほどまでの夏の暑さを忘れるような快適な温度とともに、驚くほどの音がホール全体に響き渡っていた。私は思わず耳をふさぎたくなったが、父は平然と中へと入ってく。私も慌てて父の後をついていった。席についている他のお客さん達は皆、慣れた手つきでハンドルを握っている。すれ違う店員さんがとても丁寧にお辞儀をする。つい、つられて私も一礼してしまう。
そんなことをしていると、父が「ほらっ」とお金を渡してきた。「えっ、ああ……ありがとう」と受け取ると、ひとつの席に座り「こがんやって玉ば買うとぞ」と玉を買って見せた。そして私に「それじゃあな」と言い残すと、「ええっ、ちょっと待って…」そんな私の言葉も聞こえないまま、父はさっさと自分の目当ての席へと行ってしまった。

 一人残された私は上皿に出てくる銀色の玉を見つめながら、心細さで一杯だった。とりあえず私は、周り人の見様見まねでやってみることにした。動作自体は、ハンドルを回すと玉が打ち出されるという、思ったより簡単なものだった。このまま使い切って早く帰ろう、などと考えながら慣れているようなふりをしてハンドルを回す。しばらくすると玉がどこかに入り、液晶が動く。再び玉が入り液晶が動く。そんなことを繰り返していると、突然「リーチ」の音とともに、台の光と音の演出が激しくなる。液晶では二つの数字がそろっていて、最後の数字が回っている状態。きっと父なら喜んで当たりを願っている状況だが、どうすればいいか分からない私は、「当たらないでくれよ~」なんて、この店の中で私しか思わないであろうことを内心願っていた。

 しかし願いむなしく、次の瞬間、自分の台の液晶が「大当たり」の文字を映し出していた。玉がどんどん、どんどん出てくる。遂には下皿から溢れて、幾つもの玉がステンの台から床にまで転がっていってしまった。私は顔から火が出そうな思いで、溢れた玉を必死に拾った。そしてこんなところに連れてきて、ほったらかしにしていった父に心底腹が立った。
すると、そんな私に気づいた近くの台に座っていたおじさんが、下のレバーを引いて玉を箱に入れることを教えてくれた。やっと大当たりが終わってほっとした頃には、全身汗だくで疲れがどっと出た。父の今までの「思いつき」の中で、今日が最低だな……なんてことを考えていたら、さっきのおじさんが、「ほら、飲まんね」と紙コップに入ったコーヒーを渡してくれた。

 コーヒーと先ほどのお礼を言うとおじさんが、「よかよか、お兄ちゃんパチンコは初めてね?」と聞いてきた。私が父と来た事を話すと、おじさんはとても羨ましそうに聞いていた。おじさんは自分には娘しか居ないので誘うのに勇気いるのだと、少し寂しそうに笑っていた。それからしばらくおじさんと並んで打ったが、残念ながらその後の当たりはなく、父からもらったお金はすべて使い果たしてしまった。おじさんに別れを告げ、先に出て父を待っていると、程なく父がやってきた。「面白かったや?」と父が聞いてきたので、文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが、私は「まぁ……」と一言だけ返し、家路についた。

 家の中では母が、夕飯の支度に慌ただしくしていた。私の顔を見て母が「珍しかね、二人でどこに行っとったと?」と聞いてきたので、「パチンコ。そいとに親父はどっかおらんごとなるし……」と言うと、母が笑いながら「そりゃ大変やったね。でも父さんアンタが大人になったら、一緒にパチンコ行くとが夢やったけんねー」と言った。
その父の想いを聞いた私は、今日の恥かしさも「まぁ、いいか」と思えた。今度また父が誘ってくれた時には、一緒に並んで打つのもいいかなと思えた。

−終わり−

 東日本大震災から約一年経過がしようとしております。徐々にではありますが、お客様の消費(遊技)に対する考え方も回復しつつあります。しかし、消費税増税問題や日本経済が先行き不透明であることから娯楽に対して出費を抑える傾向が強く、売上や利益に関しても、年々下降気味で推移しております。
東日本大震災をきっかけに、パチンコ業界にも大きな変化が起こりました。業界団体、各方面からの様々な支援や、実際にボランティアとして現地に向かい地域の人々を支えていきました。たくさんの成果を残して社会的にも大きく認められております。それでは、パチンコ店自体の取り組みは、ここ一年でどのように変化していったのでしょうか。夏の輪番店休に代表される節電協力、東北地方産の賞品を取り入れた地域支援活動の実施など。その中でも特に、お客様と触れ合うコミュニュケーションに対しての考え方が、大きく変化したと感じます。

 かつてない規模の大震災により、お客様の価値観が大きく変わりました。今まで考えなかったようなことまで考えるようになり、それぞれの方が今、やらなければならないことを優先順位をつけ始めたため、パチンコ・パチスロで遊ぶことは震災直後には敬遠されました。店においても震災で被害に遭われた方々に対して、できる限りの範囲内で行動し、自粛ということを踏まえて営業をしていきました。私たちがお店として何をやらなければならないのか、そしてこれから先、人としてどうしていかなければならないのかを、切に考えた時でもありました。
結局、パチンコ・パチスロでつながる想いとは、地域の方々にパチンコ・パチスロで遊んで頂くことで、お店のスタッフやお客様同士でたくさん触れ合い、みんなでお互いに分かち合って、支え合って元気になっていこうということだと考えております。

何かあった時でも地域の住民とお店が一体となって、あらゆる困難等に立ち向かっていこうということでもあります。「絆」「がんばろう日本」等に代表される、つながることへの再認識が社会全体に広がっていったことが大きな要因でもあります。店にもその影響はとても大きく、今まで以上にコミュニュケーション重視型のホールを目指していく傾向になり、お客様との会話やコミュニケーションを増やしながら遊んで頂こうという方向になってきております。これまではあまり行なっていなかったお客様満足に重点を置いた施策や、サービス面の充実を図る店も増えてきております。軽視しがちなサービス業の基本となる、お客様をおもてなしするといった原点の再認識です。

 私が考える理想は、お客様とお店が信頼している関係、お客様同士がお互いに信頼し合っている関係、お客様同士がお店で会うことを楽しみにしており、知人や友人を店に連れてきて一緒に貴重な時間を楽しんでくれる場所を提供していくこと、公平さ、公正さを大切にして、お客様が安心して遊んで頂ける居心地の良い場所の提供等、たくさんあります。
実際問題としてパチンコ店に関わらず、企業においては利益を残していかなければなりません。お客様から利益を頂くためには、お客様に必要とされるものを、その時々に合わせて提供していかなければなりません。それぞれの店で地域のお客様がパチンコ・パチスロを楽しんで頂くことで、そこに一つのコミュニティが存在します。

 地域の活性化も含めて、地域社会の一員としてつながって盛り上げていけるように、まずはパチンコ店から積極的に行動していかなければならないと感じております。

−終わり−

 震災の影響は、人々の人生を一転させたり、人々から笑顔を奪ったりした。復旧は進むものの、様々な企業に被害を及ぼしたことは言うまでもない。パチンコ店に勤めている私も、震災の余波を非常に感じている。
しかし私が感謝するのは、このような不安定な世の中、大変な時代でもお客様が来てくれること。朝から並んで来てくれるお客様、仕事が終わった後に遊びに来てくれるお客様、カップルで並んで楽しそうに遊技しているお客様、様々なお客様が毎日足を運んでくれている。これって、実際すごいことではないだろうか。遊びに来る目的は一人ひとり様々だが、そこには笑顔がある。1000人のお客様がいれば、1000のストーリーがあって、その人生にパチンコという絵具で色を添えてくれる。微力かもしれないが、パチンコを遊技している時間、その一日、人々が笑顔を取り戻してくれる。
「私は、今の日本の救世主?」

 そんな馬鹿げたことを時々考えながら、毎日接客している。
こんな私も仕事帰りや休日などは、パチンコ店に遊びに行っている。朝から並んだり、先輩に無理やり連れて行かれたりだが、やっぱり笑顔になれる。仲間と、勝った話、負けた話をしていても、その時はなぜか笑顔。財布の中身が空っぽになってしまったなんて辛い話をしている時だって、笑い話になってしまう。パチンコって魔法みたいに思える。
人の趣味は様々である。スポーツでたくさん動いて汗をかく。カラオケで大声を出してストレスを発散。そんな多種多様な中から、ちょっとした笑顔を取り戻すために、「趣味、パチンコ」、そんなのも悪くないのではないだろうか。

 確かにパチンコ店には、空気が悪いだとか、大きな音だとか、決してイメージが良いとは言い切れないが、もし一度も経験したことがないのであれば、少しでも笑顔を取り戻すために、足を運んでみてもらえると嬉しい。偶然にもその時に私がスタッフとして出会えたら、大切なお客様に最高の接客で笑顔を持ち帰っていただくことを、ここに約束する。

−終わり−


絵手紙の部

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