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その5 障害者施設を守り抜く親子2代で支えた愛媛・日野学園

 なぜか遊技産業には身障者や障害者の支援活動に取り組む人が多い。それも、人知れずに……。愛媛県・松山市で40年以上の歴史を持つ知的障害者の入所施設である日野学園。そして、同じ松山市にある自閉症者のための通所施設・コロロETセンター松山教室。いずれの経営も、パチンコホールの経営者が二代にわたって物心両面で支えてきた。その設立から現在に至るまでの軌跡を追う。

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知的障害を負った息子のために

 道後温泉で知られる、愛媛県・松山市。もともと気候が穏やかで、瀬戸内の魚介類にも恵まれた県庁所在地だが、夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台であることを前面に出した町おこしの効果もあって、最近では観光タウンとして人気の的となっている。

 社会福祉法人・日野学園は、市街の中心地である市電・松山市駅から歩いて15分、石手川の堤防沿いにある。その建物は、昭和36年の設立以来のものも含め、どれも時代を感じさせるものばかりだが、手入れが行き届き、古きよき時代の清潔感が漂っている。

 この日野学園の設立者は日野博行氏である。今年83歳になる博行氏は、愛媛県内と関東一円に70軒近くのパチンコ店を経営し、パチンコ業界の中でも大きな存在感を持つ日野一族の創始者、日野喜助氏の子息だ。

 戦後、朝鮮半島から引き揚げてきた喜助氏は、在日朝鮮の人たちがパチンコ店で成功しているのを見て、自らも昭和27年ごろにホールの経営を始めたという。当時は、連発式のパチンコ台の最盛期。喜助氏も、その恩恵を受けて事業を波に乗せることができた。

 博行氏も父の喜助氏とともに、パチンコ店の経営に参加していたが、博行氏の長男は、1歳のときに高熱に冒されたことが原因で、知的障害を持つ身となっていた。小学生の頃は地域の学校の特殊学級に通わせ、他の子どもたちと一緒の生活を送らせていたが、博行氏は思い悩んだ。このまま、普通の学校に進学させて上手くやっていけるのだろうか。この先、自分が老いて体が動かなくなったとき、誰がこの子の面倒を見られるのだろうか。そして自分の死んだ後は――。長男のために、何らかの行動を起こす必要を切実に感じるようになっていた。昭和36年のことであった。

パチンコ経営の資金をもとに施設設立

 当初、博行氏は松山市周辺の知的障害児の施設を支援することも考えた。ところが、当時、知的障害者をサポートする施設は、あまりにも貧弱だった。それは、国や地方自治体から障害者への補助が極めて乏しかったことに起因している。当時は、現在に比べて障害者への理解が乏しく、さらには満足な補助も受けられないまま、すべては家庭の中で面倒をみるべき問題として扱われていた。障害者が座敷牢に閉じ込められてしまうという悲惨なケースも多々あったという。行政の不備は、そうした悲劇を招いていたのだ。

 そうした状況を目の当たりにした博行氏に、一つのアイデアが浮かんだ。自分が思い悩んでいることは、障害者を持つすべての家庭に共通するに違いない。ならば、自分の息子のためだけではなく、そうした共通の悩みを抱える人のために、知的障害者のための施設を作ろう。それが、事業で儲けたお金を地域に還元することにもなるのではないだろうか。

 博行氏がそう思うに至ったのは、父・喜助氏がボランティア精神の強い人であったことも、少なからず、影響を及ぼしている。喜助氏は地域の高齢者を集めてイベントを開催したり、地元に祭りの神輿を寄付したり、精力的に地域社会に貢献する人であった。

 昭和36年といえば、東京オリンピックを3年後に控え、日本経済が破竹の勢いで成長し続けていた時代である。幸い、父・喜助氏と経営していたパチンコ店は順調で、資金力はあった。博行氏の次男である二郎氏(49)が、当時の状況を語る。

「山奥の田舎では、あまりにも社会から隔離されてしまうと考えて、市街地の近くに用地を探したんです。結局、現在の場所に6000平米の土地を購入し、さらに建物を用意し、そのすべて寄贈しました」

 当時、周辺は、まだまだ田園風景だったというが、市街地の近くとあって、ビルの一、二棟は軽く建てられるような額を要したという。現在、二郎氏は、日遊協理事で、四国支部長、全日遊連理事、愛媛県遊協理事長を兼ねる。

 資力にめぐまれたパチンコ店経営者だから出来たこととも言えるが、当時、政府を含めだれ1人として助ける者もなく、障害者たちは社会の片隅に放置されていたという時代である。しかしその状況は、いまもそれほど改善されているとは言い難い。

不況の余波は障害者の就職にも

 博行氏は、以後、事業は二郎氏に全面的に譲り、日野学園の理事長に就いた。現在に至るまで、施設の増改築など、必要に応じて資金援助を続け、日野学園を支えている。

 現在、日野学園の定員は成人部72人、児童部30人の計102人。障害を持つ人は、基本的に18歳未満は障害児、それ以上は障害者と呼び分けられる。日野学園は、双方を受け入れる設備を備えた施設である。もっとも、障害児とはいっても、日野学園に入所する障害児の平均年齢は約28歳。こうした入所施設では、一度、入所したら、なかなか自立への道が開けず、長期の入所となっているのが現状である。日野学園でも入所者の高齢化が進んでおり、どのスタッフよりも、長く入所している人もいる。

 入所者は、朝7時起床、20時頃に就寝という毎日を過ごしている。日中の多くの時間は、生活指導や職業訓練に費やされる。成人部では、農耕や陶芸、工芸、園芸、編物、手芸など、児童部は木工、手芸、編物、手工業の作業を通して、社会適応能力の向上を目指す。外の社会に出て就職すること、また、地域社会で生活することが大きな目標となっている。

 だが、現実は厳しい、と森康治園長は話す。

「不況の影響もあって、障害者を受け入れる企業は目に見えて減っており、ここ10年ほど、就職したケースはありません。賃金のためだけではなく、社会に出て働くことは大きな生きがいに繋がるだけに、残念な状況といわざるを得ません」

 基本的に、知的障害は治ることはない。だが、支援しだいで社会への適応能力は向上し、作業によっては十分に働けるようになる可能性も秘めている。実際、日野学園を退所して、一度、企業に就職し、その会社を辞めた現在は、日野学園の料理補助として働いている人もいる。だが、社会に受け皿がなければ、いつまでも施設に留まることになる。

 常用労働者数が56人を超える企業では、全従業員数の1.8%以上の割合で、身体障害者、または知的障害者を雇用しなくてはならないと「障害者の雇用の促進等に関する法律」により定められている。しかし、厚生労働省の調査によると、平成13年度には平均で1.49%に留まっているのが現状だ。未達成の企業は、56.3%にも上る。雇用納付金を納めれば、雇用しなくてもお咎めなしという現行の制度が、そうした現状を招いていると非難する声も上がっている。

現場軽視の政策に先行き不安

 長引く不況は企業だけではなく、国家財政も圧迫しており、障害者への補助金も節減していこうという意図が見え隠れしている。それを端的に表しているのが、近年、議論が活発化している障害者への介護保険適用だ。従来、補助金は国や自治体から支払われていたが、それを国民の年金でまかなおうという抜本的な政策の転換である。

「完全に先行き不透明で、まともに予算も組めないのが現状です。入所者がいる限り、経営が立ち行かなくなったから解散します、そういうわけにはいきません。現在の困難な状況は、どの施設でも直面している問題といえます」(森氏)

 さらに、欧米先進国では、障害者も地域社会に出て、いわゆる健常者と同じような生活を送るべきだという考えが主流になっているという。それに倣い、日本でも、日野学園のような大型の入所施設を減らして、施設に通う形のグループホームのような施設を増やしていこうという流れに傾きつつある。今後、日野学園は、ますますの逆風にさらされることになる。

 そもそも、欧米と日本とでは、障害者を取り巻く法整備の充実度に大きな差がある。現状では、そうした政策の転換は無理もあるという専門家の指摘も多い。日野二郎氏も、こう語る。

「なかなか現場の声が届かないというもどかしさはありますね。たとえば、設立当時からある寮の廊下はとても広くとっているのですが、それぞれの部屋では六畳の部屋に二人、ないし三人が相部屋で利用しています。たしかに一般には狭く思われるかもしれませんが、それが共同生活を送る障害者にとっては都合が良いからなんです。それは施設を見ていただければ一目瞭然。部屋よりも、いかに廊下の広さが有効か、お分かりいただけると思います。ところが、現在は、そうした建築は認められていません」

 現場からの視点で法整備が待たれるところだ。

4年前、自閉症者のための施設を設立

 その日野二郎氏は、東京農大在学中、父・博行氏からパチンコ店の経営を任された。学生時代は東京と松山を行き来する多忙な生活だったという。卒業後、3 軒のパチンコ店の経営に専念する日々を送っていたが、4年前、松山市内に自閉症者を対象に治療プログラムを行う「コロロETセンター松山教室」を立ち上げた。二郎氏の長女は自閉症で、やはり博行氏と同じく、一番に娘の将来を考えての行動だった。設立にあたっては初期費用の約5000万円を寄付し、現在も継続的に資金援助を行っている。

「やはり同じ苦労を抱える親御さんたちと一緒に、いろいろな問題を解決していきたいという思いも強くありました。教室を設立し、たくさんの自閉症者やその親との付き合いが深まるにつれ、それを強く実感するようになりましたね」

 それまでにも、松山市には、自閉症者のための施設はあるにはあった。しかし、それは積極的に治療するための施設というよりは、介護者の手離れのために預けるだけの施設に過ぎなかったという。それでいいはずがない。なんとしても自閉症者本人にとって、もっと前向きな施設が必要、そう決心し、その治療プログラムに共感し、東京の施設の教室を松山に設立した。

「どんな親御さんでも、途中で投げ出したくなることがあったと異口同音におっしゃいます。たしかに、それなりの苦労は伴いますが、施設でちゃんとした教育をすれば、少しずつですが、いろいろなことを身に付けていきます。そうした成長ぶりを見るにつけ、えもいわれぬ喜びに包まれます。これからも、自閉症者の成長をバックアップできる施設であり続けたいと思っています」(二郎氏)

 自閉症は、まだまだ誤解の多い病気である。先日も、防衛庁長官が、自衛隊を揶揄して「自閉隊」などと軽はずみな発言をして謝罪したことは記憶に新しい。自閉症者は、適切なプログラムを経ることで、その生活態度や社会に対する適応力が改善される病気である。その症状の改善を目指し、今日も多くの自閉症者がコロロETセンターで治療にあたっている。

地域社会の問題解決のために奮闘

 二郎氏は、忙しい仕事の合間を縫って、地元商店街の理事長を務めるなど、地域社会の問題解決にも、積極的な姿勢で臨んでいる。以前、商店街で若者が「オヤジ狩り」を働くなどして、その安全が脅かされたことがあった。二郎氏は陣頭指揮を執って、全国各地で結成されている、ボランティアのパトロール・グループ「ガーディアン・エンジェルス」を立ち上げ、町の安全回復に努めた。

 それにしても、地域社会の役職というものは、責任感が強く、行動力のある人間のもとに集中してしまうものだ。商店街の理事長をはじめ、二郎氏は40近くもの肩書きを抱えている。その状況に、いささか困惑の様子を示しながらも二郎氏は話す。

「娘の自閉症でも、地域社会の課題でも、目の前にある問題には、積極的に取り組みたいと思っています。何の対策も立てないままに、商店街が衰退し、その影響で自分のパチンコ店もつぶれてしまった……。そうなってからでは遅すぎますからね」

 日野二郎氏はどこまでも積極的だ。

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